アリスは、子供扱いされるのは正直好きではなかった。
ただ頭に乗せられた不器用なその手つきは好感が持てた、それだけだった。
「なくてはいけない大事なもの、か……」
その場に留まったまま、口にするのは先程のアイルの言葉だった。
異能者であるアイルにとって、彼らを狩る教会は憎むべき敵のはずだった。にもかかわらず、その象徴であるはずの銀十字は大事だと言い切った。
その強さがとても不思議だったのだ。
「わからないな」
理解できない、というのが正しいだろうか。アリスはゆるゆると頭を振り嘆息した。
その時だ。
<あるだけですごく便利っていうのも理由なんだけどね>
不意に聞きなれない声がしたのは。
少し高い子供のような声は、鼓膜をふるわすのではなく直接頭の中に響いているようだった。
「誰……?」
声からは害意は感じられず、念のためにと警戒だけは怠らぬようにして周囲を見回すが、アリスと黒猫以外姿はなかった。
そしてその黒猫……アリスを見つめる一対の赤い瞳が楽しそうに輝いていた。
「猫さん?」
少女の呼びかけに、黒猫は爛々と双眸を輝かせるとにこりと笑った。
「はじめまして、アリス」
先ほどと同じ、けれど今度ははっきりと耳に届く声。それは、傍らに座る黒猫から確かに発せられていた。
「いきなりでごめんね、決して君に危害を加えないと誓うよ」
猫は困ったように、そう、笑ったのだ。
膝上の猫と見つめ合うようにして、
「アイルの、猫なんだよ、ね?」
確認するようにひとつひとつ言葉を紡ぐ。
戸惑い混じりのアリスに、黒猫は肯定しユールと名を名乗った。
「一応、アイルの飼い猫扱いだ。それで通ってるから出来ればこれからもその扱いだと嬉しいな」
よろしくねと、まるで人間のように小首を傾げて猫は楽しそうにそう言ったのだった。
誰かにみられては大変だと、二人は裏庭の更に奥。
使わない、或いは壊れた机や椅子などの備品がまとめてしまい込まれている倉庫の影に座り込んでいた。
ユールと名乗った黒猫はぱたぱたとしっぽを揺らすと、
「精霊って知ってるかい?」
周囲を警戒するように周囲を見回して、小さな小さな声でユールは言った。
「せいれ……い?」
問いかけに、アリスは首を振る。聴いたことのない単語に困惑するアリスに、黒猫はそうかと呟いた。
「えーっとね、創造神たちの下にいわゆる、神の使い、天の竜、守りの王、それから精霊がいるんだけど、わかるのはある?」
「竜は知っています。神の御使い……ですよね。そのお言葉を私たちに伝えに現れるという」
他は知らないと告げると、ユールはそうかと呟き俯いた。瞬きを繰り返し顔を上げると、
「他も同じだよ。竜たちも含めてぼくらは、皆神に生み出された。……ぼくは精霊だ。まぁ、今は猫の姿を借りてるんだけどね」
ユールの説明にアリスはうなずき先を促す。わからなければ聞いてくれと伝えて、ユールは続けた。
「多分誰かに抹消されてしまった情報なんだろなぁ。まぁ何にせよぼくは今アイルに使役されている。
命じられたことはアリスが望むならば全てを話すこと――君は望むか?」
「全て、を……?」
アリスの呟きにユールはひとつだけ頷いた。
アイルが全てを語っていないことは知っていたし、どうしてエマやラザイルが異能者であることを知った上で
彼を教会においているのかそれは不思議でならなかった。
だから、
「望むわ」
その一言を口にした。
* * *
「主従、ぼくとあいつの関係を一言で言うならそんな感じでね。あいつは古い古い本を見てぼくを呼び出したんだ」
ユールはずっと眠りについていたのだと、アリスに語った。
暗い暗い世界でただひとり、水面にたゆたうように、ただひとり眠っていた。
そんな彼を呼び出したのが、黒髪に藍色の瞳の青年アイルだった。
「ぼくはこの存在を繋ぐためにあいつから力を少し分けてもらう。そのかわりに、ぼくはぼくの力を貸すんだ。
それが、ぼくらを繋ぐ契約だよ。そしてあいつはあいつで、空を見るためだけに教会に従ってるのが現状だ。馬鹿らしいだろう?」
クスクスと笑う猫は、途方も無い願いだと笑いながらも少しも馬鹿にした様子は見せなかった。
一年のほとんどを雲に覆われて、青空など数日あれば良い、その現状を変えようとしている男を好ましく思っていることは明白だった。
「あとは……できればこれを聞いた後もふつうに接してあげてくれれば、ぼく個人としては嬉しいよ」
それだけを前置きして、
「アリス。君は、不死を信じるか?」
短く問うた。
その声は低く鋭く、赤い瞳はじっとアリスを見つめてくる。
「不死……死なないってことよね? そんなのあり得ないわ、だって人には寿命があるから」
告げた言葉にユールは同意する。
「創造神は生み出した全ての命に限界を設定した。それが寿命だ。
それは神の下僕たるぼくらにすら存在する、絶対なんだ。
その唯一の例外が、アイルの存在だよ。あいつはどんなことをしても死なない」
そのきっかけは、百年と少し前に遡る。
当時異能者であることが周囲にばれてしまったアイルは故郷を飛び出し、隠れるようにして過ごしていた。
山奥に隠れ住み、必要なときに必要なものを買いに街に出る。
闇市や裏通りの怪しい古物商から、異能についての本を買い漁るうちに、手に入れたのは古い装丁の本だった。
自身の力を知るうちに欲が出たのだという。
各地を歩きまわり貪欲に、力を求めた。
自由に己の力を振るうことが出来れば、守れたものもあったはずだと信じて。
そして、その巧妙に隠された遺跡を見つけたことでアイルの運命は変わった。
幾重にも掛けられた遮蔽の術を無理矢理壊してアイルは遺跡に侵入した。そして、ソレに出会ったのだ。
『覚えているのは出会った瞬間壁に叩きつけられて、ソレに掴みあげられたこと。吐き捨てるように何かを言われたことだ』
出会ったばかりの頃、かつてユールにその時のことをそう語った。
「吐き捨てられた言葉のその意味は、『永遠の時を彷徨い歩き己の罪を自覚せよ』といったところかな」
「それって」
「そのままだと思うよ。それ以来、アイルは心臓を貫かれようとなにをされても決して死ななくなった。
あいつ自身が話せと言ったから話すのだけど……、彼をただの人として扱ってくれれば、嬉しいな」
ユールはぱたんぱたんとしっぽを揺らすと、悲しそうな声でそれだけを告げた。
* * *
衣擦れや自身の息遣いが酷く耳についた。
外から漏れ聞こえる音が酷く眩しい。
「自分じゃ言えなかったな」
消え入りそうな声で呟いて、アイルはごろりと壁際に寝返りを打つ。
あの後ユールが説明しただろう。知っていることを全て話しているはずだった。
ユールは普段は黒猫としてアイルの傍らにいるが、精霊と呼ばれる存在であることも、アイルが決して死ねないということも。
アイルは胸を突こうが首を絞められようが、首を切り落とされてもなお、この命が消えることはない。
そのことを知ってるのは、飼い主とラザイル、エマ、それからユールの数名だけだ。
神都の幹部連中には、アイルはほかの長命種族だと思われていることだろう。
彼らは独自の信仰を持っているしそれ故に狩りの対象となっていてその数自体は減ったものの、改宗の結果、教会に属するものは多い。
それでも彼らと違い、怪我をしても自然治癒せず、治療のために異能を使わなければならない。
長く変わらない外見は長命種だと言えばごまかすことが出来るけれど、長く一所にいるわけにはいかなかったのだ。
老いず死なずのアイルは、常に恐怖を抱えている。
次に起きた時、知っている人間が皆死に絶え、自分だけがこの世界に取り残されているのではないか、と。
ありえないとわかっていても否定出来ないその恐怖を覚えてから、アイルは夜眠れなくなった。
だから、空が僅かに明るくなるのを見て、アイルは安堵の息を吐く。
結局その日は眠れなかった。
そのまま寝台の上で寝返りを打ち、
「あぁーくそ」
毒づき緩慢な動作で起きると、窓際に近寄った。窓を開ければ夏の朝風が吹き込む。乾燥した冷たい風が、アイルの黒髪を揺らし通り過ぎていった。
厚い雲と雲の隙間から僅かに見える光にため息をつく。
「風邪ひくよ」
遠慮がちな少女の声がした。直後にノックの音。
「別に構わない」
振り向かずにアイルは告げた。
振り向くのが少しだけ怖かった。打ち合わせ通りであるならば、全てを彼女は知っているはずなのだから。
(どうして話して良いっていったんだろうな)
心の中で呟いて背後の様子を探る。
「他の人にうつされると困るんだけど?」
短い付き合いだが、普段と変わらない調子のように思える。
「うつさないよ。――アリスは、青空を見たことがあるか?」
口からは自然とその言葉が出てきた。
「何回かね。けど、雲ひとつない空って言うのは、昨日が初めて。アイルは?」
「もちろん、見たことあるよ。ずっと昔、子供の時に」
「どんなのだった?」
「昨日の空よりももっと綺麗だった。大気が綺麗だったからだろうな。本当に青かった。雲ひとつなくて抜けるような青い空だった」
振り返ってアイルは言った。吹き込む風は、アリスの金髪を揺らす。
「というよりもさ。世界の何もかもが、今とは違った。……今とは、違いすぎる世界だったよ」
アイルは言って、苦笑した。
彼が子供の頃は、まだ環境はよかった。
夏は暑く、太陽は輝き、空はどこまでも青かった。雲ひとつない空の下で、原っぱを駆け抜けて、転げて遊んだ……。
今は違う。
夏だというのに気温は上がらず、太陽がのぞく日も少ない。空はいつだって雲で覆われていて、泣き出しそうな灰色をしている。
雲の隙間から見える青空を見たことはあっても、雲ひとつない空を見ることは珍しい。
窓枠に背を預け、アイルは微笑んだ。
「ユールから全部聞いた?」
「ええ」
「俺のこと、怖くはない?」
問いかけに、少女が沈黙したのは一瞬。
「私の両親は異能者に殺されたわ。だから、異能者が怖いのは変わらない」
まっすぐにその瞳はアイルをうつしていて。
「だけど、その点以外は怖くはない。だってアイルはアイル、でしょ?」
「ありがとう」
「別にお礼を言われる筋合いはないわ」
「なー、アリスは欲しくない? 夏は暑くて、太陽を見ることができて、青空を見るのが当たり前な世界を」
「そりゃ、欲しいと思うけど、あんたたちの目標だっけ」
どこか諦めの混じった声で、アリスは言った。
「うん。俺たち異能者は自分たちの力の研究のほかに、土地を調べたりもしてるんだよ。
どこがどういった状態になってるかってね。その辺は、教皇の許可も取ってる」
へらへらと笑って、アイルは言う。瞳は楽しそうに輝いていた。
「今の段階では可能性があるって程度だけど。こうなった原因とかも、少しずつわかってきたから」
息を吐いて、アイルは窓の外を見た。
町並みと、せわしなく働く人々の小さな姿が見える。
「たった五人で何ができるって言われればそれまでだけど。俺自身ももう一度見たいからさ」
緑に覆われた大地を。
視線を戻せば、アリスが不安そうに立っている。アイルは微笑み、窓から離れて彼女の頭にぽんと手を乗せる。
「俺には時間もたっぷりあるし。なら、掛けられた呪いを利用させてもらおうとか考えてたりするんだよ。さて、飯食いに行くか」
さっさと扉に歩み寄り、廊下に出る。
「ちょっと待ってよ」
「嫌だね」
そう答えて、アイルは振り返り、廊下から窓の外を見た。
どんよりと曇った空を、二羽の白い鳥が飛び交っていた。
灰色の中に浮かぶ白い点。
雲の隙間から差し込む朝の光の中を二羽の鳥は、優雅に空を舞っていた。
例えば抹消された歴史があって。
例えば作られた歴史があって。
そして大多数の人間はその偽りを真だと信じる。
「歪んでるよね」
教会の尖塔、町を見下ろす位置に立ち男は呟いた。風に炎のように赤い髪がさらわれる。
町はすっかり目覚めていて、働き者の人々がちらりと街路に姿を見せはじめる。
時告げがガラン、ガランと教会の鐘が鳴らし、その響きはティアの町に朝の訪れを告げる。
(それでもこれがこの世界の真実、なんだろうな)
赤い瞳がゆっくりと町を見渡し、小さく小さく息をつく。
「どうか。彼らの生が太陽のように光に満ち、歩む道が廻る星月と数多の精霊により祝福されますよう――」
酷く歪んだ世界を見て紡がれたのは祈りの言葉だった。どこかでリーンと鈴が鳴るような音がして、男の姿は消え失せた。