※穏さまのお題:名も無き20のファンタジーをお借りしています。
No.16:墓銘のない墓
一年の大半が霧に包まれる森の奥深くに、その樹はあった。
その樹は森の中で一際大きく、幹の周りは大人数十人が手を繋いでも一回りできぬほどだった。
村の大人たちは、眠りの大樹と呼んでいた。
樹の近くには湖があり、時折水面に波紋が浮かび、また水が跳ねる音がする。
鳥の囀り、木々のざわめき、風の音。
そこは、森の外とは違った空気に包まれていた。
少女が一歩踏み出すごとに、足元の枯葉ががさりと音を立てた。
音に驚いたのか、茶色い野兎が駆けて行く姿が視界の隅に映った。
彼女の手には、色とりどりの花が握られている。
うっすらと霧に包まれた中、迷うことなく少女は大樹の元へと進んでいた。
彼女がそれを見つけたのは、五年ほど前のことだ。
大樹の根元に、苔むした石があった。
最初は気にも留めなかった石は自然にある物でなく、人為的に置かれているのだと気づいたのはその一年後。
石から丁寧に苔を取り除けば、それが墓石であることに気付く。
石に刻まれていた文字のうち、少女がかろうじて読めたのは「此処に眠る」という部分だけ。
長い年月の間に、記されていたのであろう墓の主の名は判別できないほどに風化していた。
その墓のことは、少女の養父も村で一番長く生きている者ですら知らず、彼女は純粋に興味を覚えた。
村に保管されている葬儀記録にも、その墓のことは一切記されていない。
養父曰く、使われた石材や文字からして少なくとも数百年以上前から存在しているという、誰からも忘れ去られている墓。
彼女は以来、毎年決まった日に花を持って墓の元へ行く。
誰とも知らぬ、忘れられてしまった名もなき者の墓のもとへ。