... 望むものは・1 ...
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 ガタンガタンと音を立てて汽車はレールの上を走るその車内は静かなものだった。 時折同乗する数名の乗客が遠くで微かな笑い声を零す程度で、あとは車体のきしむ微かな音が耳に届くのみ。
 砂で汚れ曇った硝子窓の向こうには荒野が広がり、遠くに枯れた木々や朽ち果てた建物の残骸が見えた。
「―――まもなく終着駅です」
 やがて酷く悪い音質で車内放送が聞こえてくる。荒野の向こうに微かに町影が見えた。

 キィキィ…と耳障りな音を立てブレーキがかかると車体は一度だけ大きく揺れて止まった。 車内放送は汽車がティアの町についたことを告げた。
 服を引っ張られる感覚に目を覚ました青年は、傍らで袖口をくわえ見上げる黒猫に苦笑して伸びをする。 仔猫ほどの猫は、よく手入れされていて黒い毛並みはつやつやで、深紅の丸い瞳は少し不満そうだった。 気がつけば窓にもたれるようにして眠っていたらしく、体はがちがちに固まっていた。 ほぐすように何度か腕を回すとようやっと立ち上がり、つまらなさそうに髪と同じ闇色の外套を纏い、大きな茶色の布カバンをひとつ肩に掛ける。
「来い」
 短く一言放てば、黒猫は一度しっぽをぱたりと揺らすと身軽に青年の肩に飛び乗る。一度だけ喉を撫でてやれば、ごろごろと気持よさそうに目を閉じて、 その猫の様子に苦笑すると青年は車外へ向かう。青年は二十歳代後半ほどで名をアイルといった。 長さの揃わない闇色の髪と珍しくもない日に焼けていない白い肌。髪と同色の外套は潮風に揺れその隙間からは着ている黒いシャツが見え隠れしている。 駅のプラットホームには黒尽くめの彼しかおらず、そのかわり数名の乗員が積まれた荷物を降ろしているだけだ。 他の乗客はまだ車内に残っているようだった。
 乾いた風が吹き抜けると砂埃が舞い上がりそれを腕で目をかばう。風には甘ったるいにおいと海の香りが混じっていた。
 緩やかな坂を上って行くとやがては町の門が見え始める。
 町を囲う壁は赤茶色のレンガで作られ、開け放たれた門扉は古い樫の木製。その門扉は遠目に見れば綺麗に見えたが、 近くで見ると三十年程前の紛争の際町を守って出来た傷がいくつもあることを彼は知っていた。
 その町の名前は、古い言葉で<女神の涙>を意味するティアという。
 大陸のほぼ中心にある神都から西へ汽車でおおよそ半月かかる場所にある。 ティアの町が出来たのは、ほんの百年ほど前だ。比較的新しく生まれた町故に歴史が浅いこと。 人口も五千に満たないことからか、終着駅があるにもかかわらず町は地図に載っていなかった。

 そのティアには一軒だけ小さな酒場が存在していた。この地方では特に珍しくもない白い石造りの店だ。 本来ならその白い壁が夕日で赤く染まる時分、店内は仕事を終えた男たちが立ち寄り賑わっている。
 アイルはその喧騒の漏れ聞こえる店の前に立ち看板を見上げていた。 古ぼけた看板にはところどころ剥げているペンキで<女神の涙亭>と書かれていた。 潮風に吹かれる看板はギィ…という耳障りな音を立てて揺れている。
「飯食ってくるから、悪いけどここで」
 アイルが溜息混じりに言えば、猫は心得たとばかりに肩から飛び降り、店の前に積まれた酒樽の上を居場所に決めたのか丸まり目を閉じた。 それを見届けてから外套の埃を払い、立て付けの悪い扉を開けた。風に揺れる看板と同じ音がして扉が開くと、 喧騒とともに料理の匂いが風に乗って鼻をくすぐる。 店内の人間は彼に気がついた様子もなく、酒を飲み交わし続けていた。
 入り口で店内をぐるりと見回してアイルは席を探すが、どこも人で埋まっていた。 彼がどうしようかと考えこんでいるとカウンターで手招きしている男の姿が目にとまり、アイルは迷うことなくそこに向う。 手招きをした人物は、そこに座れというように空席を指差しそれに従った。鞄を足元において空席の一つに座るとその男が注文を聞きに来る。 三十路を少し過ぎたくらいの、歳若い男だった。手があいていたのは、彼だけなのだろう。
「酒と――この店お勧めのもの」
 美味いものならうれしいなと、メニューを見ることもせずにアイルは笑って言うと、男も任せとけと笑って奥に引っ込み―― すぐに酒で満たされたグラスを持ってきた。アイルはグラスに口をつける。料理ができるまで時間はありそうだった。
 グラスを置くと鞄から一冊の分厚い本を取り出した。黒い表紙はボロボロで側面は手垢に汚れ黒ずんでいる。 金色の題名らしき文字はかすれて判読できぬ有様だった。しおりを挟んでいる頁を開けば視界一面に複雑な図形や記号、 細かい文字がびっしりと書き込まれている。六頁目を読みはじめたときだった。
「調子はどうだい、旅人」
 声と同時にバシッと小気味のよい音をたてて、誰かがアイルの背中を叩いた。
「ってェな……」
「悪ぃな。悪気は無いんだよ」
 深い藍色の瞳で睨み付けるアイルに、くすんだ金髪の男は悪びれることなく言った。まだ若い青年と呼べる男だ。 年はアイルより少し若いほど。外見だけ見ればアイルとさほど変わりはないのだが。 彼はグラスを片手に隣の空いていた席を陣取る。まだ素面の様だ。青年の言葉には少し訛が混じっているがそれは不快ではなくむしろ好感が持てる。 西部地方の語尾が少し高くなる発音がアイルは好きだった。
「どこがだよ。で何の用?」
 頬にかかる黒髪を払いのけ、不機嫌さを隠そうともせずにアイルは言う。
「いやー。アンタみたいな人がこんな寂れた場所に来るなんて珍しくてな。汽車か?」
「徒歩でここまで来る勇気は流石に無いな」
 青年の言葉にアイルは苦笑してグラスに手を伸ばす。
 荒野を渡るのは命懸けだった。神都以外はほとんど海や川などの水辺付近、もしくは山の麓ばかりだ。 廃墟が点在するその荒野には途中で食料や水を補給できる場所は存在しなかった。
「乗車賃高いんだろう? ――あ、マスター。この人にもう一杯酒を」
「いやいらないからさ。酒はもう」
 ふっと視線を逸らし嫌そうにアイルは呟いた。パタンと音をたてて本を閉じカバンにしまう。
 先ほどの男――彼がこの店の主なのだろう――は苦笑しながら、アイルの前に料理の皿を置くいた。オムライスだ。
「確かに高いね。けど俺持ちじゃないから気にせずに堂々と乗ったわけだ。自分持ちならば絶対乗らないね」
 いただきます。そう呟いてアイルはスプーンを握る。湯気を立てる出来立てのオムライスは見た目だけは本当に美味しそうだ。
 スプーンですくえば半熟の玉子はとろりとしていて。アイルは覚悟を決めると複雑そうな表情にそれを口に運んだ。 途端ぱちぱちと瞬きし、首を傾げもう一口。
「これは本物?」
 じっくり味わうように咀嚼するとグラスに手を伸ばし店主へ顔を向ける。
「わかるかい? 本物の、天然素材だよ」
 ニヤニヤと彼は笑いながら答えた。
 ここ十数年この世界における食糧事情は芳しくなかった。やせ細るばかりの畑でとれる作物だけでは全ての人間の腹は満たせない。 加えて植物の育たない大地はどんどん増えていき、かといって対策として人口をこれ以上減らすのも拙い。 そこで考え、生み出されたのが、人工食材。見た目も含まれる栄養分も食感も匂いも本物そっくりで。
「だから、苦くないのか……」
 スプーンでケチャップライスをつつきながら納得したように頷く。
 所詮ニセモノはニセモノでしかなく味だけはどんなにがんばっても本物と決定的な差が生まれた。 それが苦味。どれだけ口にしても慣れぬあの苦味がないということは、多分、美味しいのだろう。
「酒は嫌いか?」
「いや。大好きだけど」
 口の中の物を飲み込んでから、先ほどよりも機嫌の良さそうな声でアイルは答えた。
「ならどうして飲まない?」
 青年は不思議そうに聞く。アイルのグラスに注がれた酒はまだ半分以上残っている。
「……なんていうか。非常事態に酔いつぶれてると役に立たないし?」
「ふーん。あ、そうだ。今日泊まるのってどこだ」
「訊く必要ある? 泊まる場所はひとつしかないのに?」
 アイルは苦笑して言う。この町に宿屋は無い。というよりも大都市にでも行かない限り宿のある町は珍しい。理由は簡単。旅をする者自体が少ないからだ。 大抵は空き家か誰かの家を借りる。それか教会を頼る。それが常識だ。もっとも見返りを求められることもあるのだが。
「だよなぁ。やっぱり教会か」
 青年はにやりと笑う。
「何か出るとか?」
「まさか! 気になっただけだよ。前に野宿したがった変わり者がいたからな」
「野宿かぁ……。昔ならいいけど今は辛いだろうに」
 アイルは苦笑しながら、スプーンを置いた。
「もしかしたら会えるかもな。茶髪に紅い目の男だったよ」
「紅い目の男ねぇ……。流石に野宿するつもりは無い」
 アイルは笑って言う。グラスの中身を飲み干して店主に声をかけた。
「ご馳走様。美味しかったよ。いくら?」
「五十イェールだ」
 安いねなどと言いながらアイルは財布から銅貨を五枚取り出す。五十イェールあれば本が一冊買えるくらいの金額だ。天然素材でそれは破格の安さだった。 大陸のあちこちで特に食料は物価が高騰している。アイルがつい先日居た町で同じ物を注文すれば今の倍くらいはしただろう。
「はい、五十イェール。それじゃ、またな」
 青年に笑って言い、アイルは外套と荷物を抱えると、店を出て行った。
「物好きだよな、あの旅人」
 アイルを見送って青年は言った。店主も同意する。
「そりゃ、好きでなければ、こんな荒れ果てた大地を旅するわけがないからね」
 窓の外に視線を移して、店主は呟いた。

 今にも泣き出しそうな分厚い灰色の雲はどこまでも続いている。その空の下教会へと続く海沿いの道を黒猫と共に歩いていた。
 酒場からアイルが出てくるのを待ち構えていた猫は、遅いというように非難混じりににゃーんと鳴き、彼のあとをついてくる。 アイルから見て右側には閉店間際の店や家が、左側には海が見える。空の色を映してか海は暗い蒼色をしていた。 時折すれ違う人々の肌は南のほうで降る雪の様に白い。一年を通して曇り空か雨が続き、太陽が見えるのはわずか数日だからだ。 シャツの袖を捲るアイルの肌も他の人ほどではないが白く、手首の銀鎖の巻かれた黒革のリストバンドが目立って見える。
 ティアの町は丘の上にあるため全体的に坂が多い。その中でも教会は頂上に位置するためアイルは緩い勾配のついた道を歩き続けた。
 舗装されていない土の道には草はほとんど生えておらず、カラカラに乾ききったそこにはひび割れている場所すらあった。 それは大陸全土においていえる。何とか植物が育つことができるのは町や村の周辺だけで、 どんなに丹精込めて畑を耕し植えた植物たちを思いやり世話をしても、それは思ったような収穫に繋がることはない。 大陸に広がる森も草原も次第に枯れ、いずれは荒地へ砂漠へとなる。大陸に張り巡らされた線路のある場所もかつては草原や森であったことを、 何百年も昔の地図は示す。
 死の大地。
 人々は草木の育つことのないその土地をそう呼んだ。
 土地が死んでいく理由がわからないままもう何十年と経っている。時間が経てば経つほど、人の住める土地は少なくなっていった。 百年前まで樹海と呼ばれた場所は今では荒野と呼ばれ、二十年前まで草原と呼ばれた場所は砂漠となっている。 この大陸に残る人が住める場所は、ほんの僅かしか存在しない。人々はその僅かな土地を手に入れようと、奪い合っていた。
 アイルは嘆息すると、猫をすくい上げ肩に乗せると教会へと歩む速度を上げた。
 家々の隙間から、教会の屋根が見えていた。

 開かれたままの古めかしい鉄の門をくぐれば、そこはもう教会の敷地内だ。
 教会は以前訪れた時と比べなんら変わっていないようにアイルの瞳には映った。 最後にアイルがこの街の教会に来たのは七年前。門の側に生えている木も前と違って葉があることを除けば何も変わってはいない。
 ふと思う。人はどうなのだろうか。七年という年月は人を変えてしまってはいないだろうか。
 教会は古い石積みの建物で大きく四つの棟にわけられて建っている。 正面から見ると大きな扉のある棟が目に入る。そこは神に祈りを捧げる礼拝堂や懺悔室がある、一番大きな棟――中央棟と教会の人間は呼ぶ場所だ。 その両側、東棟と西棟には教会の関係者の暮らす寮が男女に分けられて建っていた。 中央棟のその向こう側は食堂や図書室のある共有棟となっていた。
 アイルは迷うことなく中央棟に向う。大きな樫の木の扉を押し開け礼拝堂の中に入った。
 礼拝堂の中は天井が高く音がよく響くよう設計されている。そのためアイルの足音は広い空間にやけに大きく響いた。 しんとした礼拝堂内はどうにも居心地が悪い。幼い頃は平気だったはずだが今は苦手だとアイルは思う。 礼拝堂に入ってすぐに上を見上げるとステンドグラスが目にはいった。色とりどりのガラスで描かれているのは、一人の若い男。 長い金髪に同色の瞳の若者は、抜き身の剣を手に立っていた。
 彼の名は<Lrizrb>という。音にするならばリザーブ。世界創造六柱のうち太陽神としてこの大陸で最も崇められている。 ステンドグラスの絵は、太陽神が地上に降りてきたときの様子を描いたものだという。 リザーブと同じ金髪金眼に生まれた人間は、彼の――太陽神の御使いとされる故に、神聖であるとされた。歴代の教皇は皆太陽神と同じ金髪金眼だ。 その神の御姿をもったその存在は太陽神の声を聞きそれを地上を生きる人々へ遍く伝えることが使命とされる。
 礼拝堂の奥、柱の影に小さな扉がある。その向こうには一般人立ち入り禁止の通路が続く。通路の先にあるのは教会関係者の居住スペース。 食堂や書庫教会長の執務室や談話室があり、またその通路を使えば東棟や西棟に行くこともできる。 それぞれの棟は独立している為きちんと勝手口が存在するのだが。アイルは奥の扉に向い遠慮なく狭い通路をすすむ。
 奥からは、賑やかな声が響いていた。
「賑わってるよなぁ……」
 ポツリと呟きアイルは立ち止まる。真っ直ぐ通路をすすめば食堂や書庫などの共有棟。左にすすめば男子寮、右は女子寮へとつながっている。 アイルの目的の部屋は共有棟にあるはずだ。

「ここは立ち入り禁止ですよ。動物の持ち込みも禁止されています」
 少し不機嫌そうな声がしたのはそんなときだった。
「悪い。ちょっとここの責任者に用があって」
 悪びれることなくアイルは言う。声はアイルの右側、女子寮へ続く通路から聞こえた。
 視線を向けるとタオルを抱えた十四、五歳くらいの少女が一人立っている。
 胸ほどの長さの金髪に綺麗な海の蒼い瞳。黒を基調とした特徴的な服と胸元を飾る銀のロザリオから修道女であることが分かった。  少女は、怪訝そうな表情を浮かべ、誰何する。
「アイル、アイル=クラウドだ。アイルが来たと伝えてくれれば分かってくれる」
 そう言って袖の合間からリストバンドを少女に見せる。
 黒革に細く頼りない銀鎖が巻かれ、そこには小さな銀の正十字があった。正十字の交差する部分に赤い小さな石が付けられ、 そこから延びるように蔦が彫り込まれている。十字はリザーブの持つ剣を象徴し、そして赤い石は太陽の象徴。
 それを見た少女は蒼の双眸を丸くすると頭をさげる。
「司祭様でしたか、失礼致しました。……こちらへどうぞ」
 彼女はどこか不審げな眼差しで言ってアイルを女子寮の方へ案内し始めた。
 彫り込まれた蔦は司祭の位を意味していた。


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掲載日:2011/05/23 初出:2004/08/18
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