... あの空の向こうへ ...
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 風が強かった。
 切るのを面倒臭がって伸ばしたままの黒髪も裾が擦り切れた外套も、風に遊ばれるように流される。
 顔にかからぬように髪は背に払い、外套は体に巻き付けるようにして手で押さえつけた。
 遠い山の背に太陽がゆっくりと沈んでいく。山の背は赤く燃え、反対側の空は青々と、そしてその境目は紺碧に染まっていて。
「…………」
 足元に投げ出した荷物袋を無言で背負いあげると、少年は紺碧の空のその向こうを目指し歩きはじめた。

 世界には人と一纏めにして呼ばれる四種族がいて、その種族は寿命によって更に二つに分類された。
 その多くが百に満たず天寿を全うする、短命種。
 その中で神に一番近い姿をし人口がもっとも多いのがヒューネイアだ。そのヒューネイアよりやや小柄で鳥類のような羽毛の翼を背に持ったフェザルツ。
 短命種の十倍以上の時を刻むのが長命種だ。
 古い言葉で神に愛されたと呼ばれる美しい容姿のエルフューネ。そして彼らよりも更に長く生きるアーレストル。
 それらは遠い遠い昔、世界を創造した神が産み出した命だった。
 時に手を取り時に小さな争いを起こしながらも神に望まれ生まれた命は確かに祝福されこの世界に生きていた。 数を増やした彼らはやがて高度な文明を築き上げ生を謳歌した。今では想像もつかぬような技術は人々から病や怪我への恐怖を忘れさせ、 いつしか神へ畏れをも忘れ去った。利を求め富を求め、世界を滅ぼしかねない争いを起こし――嘆き怒った神により下された裁きにより、 たったひとつの大陸を残し滅び去った。それまで築き上げた文明の知識もろとも。
 エストが育ったのは、山の奥深くだった。険しい山々に囲まれたそこは訪れる人がいないような場所で、彼は里の人以外を知らずに過ごした。
 彼の両親は十数年前、神の裁きにより滅んだ大地で育った。生き延びたのは幸運で、たまたまこの地を訪れていたため逃れることが出来たのだという。
 寄る辺のない者たちが集まりできたのがこの里で、その大半が滅びた地の人だった。
 里人は世界を創造し守護する神々を崇め教えに沿ってひっそりと暮らす。 その中で半数程が火の神を崇めていた。火神の教えは簡単だ。

『祈るがいい。平穏を、無事を、幸いを祈れ。
 欲無き純粋な祈りを捧げよ。
 尊き祈りはやがて光となり、地上を明るく照らす。
 明るき光はまた、汝らに降り注ぎ、その命を守護しよう。
 故に、祈りなさい。その幸せを守るために。
 その祈りはまた世界をも守護するだろう』

 その教えに従い、厚き信仰心を持つ持つ里人たちは、朝昼夜と祈りを欠かさない。
 今日が良い日でありますように、良き実りがありますように、明日も良い日でありますように……。
 小さくささやかな祈りが途切れることはなかった。
 偉大なる火の神は燃えるような真っ赤な髪と瞳を持った褐色の肌の青年の姿をとるのだという。
 里で赤毛や赤目の子が生まれれば皆して祝う程に喜ばしいことだった。火の神とは別の神を崇める者も、裁き以降姿を消した 神々の再臨だとそのことをささやかに祝う程に。
 エストは母の血を濃く受け継いだのか漆黒の髪と瞳をしていた。 敬虔な火神信仰者の父親は赤を継がなかったことを残念に思っていたようだった。
 長命を誇るアーレストルであるエストの両親は戦争が始まる前に唯一赦されたストラルと呼ばれるこの大地へ渡った。 そして世界を巻き込んだ戦争がはじまり交易路がなくなり戻る道が途絶えた。なんとか戻ろうとあちこちを駆け回る最中、ある日大地が激しく揺れた。 何日も何日も雨と風が吹き雷が轟き、ようやく晴れ間が除けば海の彼方、空と水が交わるはずの地点に灰色の壁が存在していた。
 何十人もの若者がその先を目指したが、無事に生還できたものはそのうちの数名。
 生還したものは言った。
 その中は地獄のようだったと。荒れ狂う海に轟く雷、風は波を操り船を飲み込もうとし、 磁石は嘲笑うかのように狂って踊り、魔法も使うことができなかった、と。
 半月もせぬうちに、霧の壁の向こうにあるはずの他の地は滅んだのだと噂された。
 そうするうちに、いくつかの神殿は神の声を耳にした。
 曰く、醜き争いに裁きを、と。
 曰く、この地にもう用は無い、と。
 以降、誰も神の声を聞くことはなくなった。
 神は世界を見捨てたのだと、里の大人たちはエストや子供に繰り返し繰り返しそう語った。
 エストの父は幼い彼を度々里の外へ連れ出した。山が望める場所まで連れてくると、繰り返し語る。
「あの空の向こうには、父さんと母さんの故郷があったんだよ」
「そこは神の祝福が色濃く残った、まるで楽園のような場所なんだ」
「今はもう滅んでしまったけれど、そこは父さんと母さんの生まれ育った大切な場所なんだ」
 夕焼け空の下で、くり返しくり返し、父は語った。その指し示す場所は険しい山に阻まれ望むことができない。
 レクナーという名のその大地はまるで、楽園のようだった。
 いつもその言葉で締めくくられるのを、憧れをもってエストは聞いていた。
 見知らぬ世界の話。知らない技術の話。人が空を駆け、天候をも操った過去の文明の話。
 耳にするたびに、エストの心は震え踊った。
 朝起きて祈りを捧ぐ。畑を耕し実りを願い、ささやかな夕餉を終え祈り床に就く。
 同じことを繰り返し変わらぬ日常を過ごす。
 夕焼け空を見る度に思い出す心の震えに、変わらぬ日常は酷く退屈で、これでいいのだろうかとエストは疑問を抱いていた。 それでもその疑問を口にする事はなかった。

 転機は、思ったよりも早くやってきた。
 その頃は世界が滅んでおおよそ百年近くが経っていた、そんな時だ。
 獣が運んだのか、村に風邪が流行り里人が倒れた。その中にエストの母も混じっており、 程無くして神の元へ還っていった。父親は最愛の伴侶を喪ったことを酷く悲しみ、祈ることも忘れた父は、 エストが無理矢理口にさせた食事の時間以外、起きている間はただただ何もない空を睨むように見上げていた。
 半月ほどそうした後、 「エスト」
 そう名前を呼ばれ、エストは方を震わせた。掠れた声で名前を呼んだ男は、虚ろな瞳にエストを映し外へ行かないかと持ちかけた。 エストではない遠くを見るその目を見て、彼は「わかった」と短く返した。
 母を埋葬した墓に素朴な花束と祈りを捧げ、エストは里を後にした。里の人とは簡単な挨拶をして、 森を駆けまわる時に使っていた短剣と衣服と当面の路銀を持って。

 険しい山を抜け足を踏み入れた町。初めて踏み込んだ外の世界は様々なものに溢れ心が踊った。
 聞きなれぬ言葉、見たことのない服装や食べ物、綺麗な作りの建物に、なによりも喧騒が珍しかった。
 里で使われたのは滅んだ世界の言葉だったけれど、不自由がないようにと教えられた残された世界の言葉のおかげで、生活には不自由しなかった。
 同色の髪と瞳は不吉だと疎まれたものの、実力が重視される冒険者になった後は何ら問題はなかった。 短剣と身軽な体、器用な手先を武器に適当な仲間を見つけては依頼をこなし遺跡に潜り報酬を得た。
 小さな世界に閉じこもり規則正しい生活を送っていた身には、その日々が何よりも刺激的で楽しかったのだ。
 里の老人は語っていた。
 裁きの前は高度な文明を誇っていた世界。
 裁きの日、多くの書物と知識が失われ、文明は終わったのだ。
 それでもほんの僅か、残った遺産が各地に眠っていた。地に埋もれた過去の遺跡がそれだった。
 少しでも過去に近づけたらと、何処かで思いながらエストは好んで遺跡を探し歩いていた。収穫など殆ど無かったけれど、充実した毎日だった。
 里に戻ろうと思ったのは気まぐれだった。たまたま一人で受けた依頼が、里の近くだった、それだけだ。 埋もれてしまった山道を歩き十年ぶり戻った里は変わらず、里の人たちは少し驚いたようにエストを見て、それから悲しそうに笑って出迎えてくれた。
 生まれ育った家はそのままだったけれど、誰も住んでいないようで朽ちかけていた。
 貴重品だけは近隣の住人が預かっていて、形見としてエストはいくつかを懐に収めると残りは処分してくれるように丁寧に頼んだ。
 夕暮れの中訪れた母の墓の隣には、小ぶりの石が置かれていた。刻まれたのはエストの父の名前だった。
 エストが旅立ったその日、父は自ら命を絶ったのだという。暗い暗い瞳にそのことは半ば予想していて、エストは特に驚きもしなかった。
 短く残された手紙には、母のいない世界に価値はないと故郷の文字で書かれていた。
 倒れていたのは母の眠る墓のその隣で、世話をしに来てくれた人が見つけたのだという。
 母の墓の隣に父が眠ることになった。
 アーレストルという種族は他の種族よりも遥かに身体能力に優れる代わりに、子孫を残しにくく、 やっと授かったその子ですら幼少期は弱くちょっとした病や怪我ですぐに死に至る。
 そして、その寿命は絶望的に長く幾千年にも渡る。
 父親はその命の残りを、ひとりで過ごすことに耐えられなかったようだった。
 その日の夕方、幼い頃父と歩んだ道を辿った。開けた崖の向こうに険しい山々が壁のように立ちはだかる。 遠い山の背に太陽がゆっくりと沈んでいき、山の背は赤く燃え、反対側の空は青々と、そしてその境目は紺碧に染まっていく。
 いつかのように強い風に、眉をしかめた。
 相変わらず無精で伸ばした髪は風に流れ、擦り切れた外套は翻る。
「……どうしろってんだよ」
 父は妻のいない世界で生きることを拒絶した。
 こうなるであろうことは予想できていたし、覚悟もできていたはずだった。
「どうしろってんだよ」
 もう一度呟いて、嗚咽を噛み殺す。
「残されたぼくはどうしたらいいんだよ」
 父も母も、もはやこの世にいないのだ。神の腕の中、次代に向けて微睡んでいる頃だろう。
 いざ直面するとどうしようもなかった。つきつけられた孤独に、父が覚えた絶望を理解した気がした。
 ひとしきりその場で涙を流し、世話になった人に挨拶をして今度こそ里を後にした。
 それから海を目指し短い旅がはじまった。
<よく晴れた日には隣の大陸まで見渡すことができたんだ>
 いつか語られた、異大陸の話。
 それだけを頼りに、海辺の村を目指す。
 その村にたどり着いたのはよく晴れた日で、大陸がみえるはずの場所には灰色がかった霧がうっすらと見える。
 空と海が交わる地点なんてどこにもなかったのだ。
 まるで檻の中に閉じ込められた鳥の姿をエストは描き、
「くだらない」
 短く吐き捨てると灰色の壁を睨みつけ、その場を後にした。
 いつかあの向こうへ行ってやると、その心に決意して。


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掲載日:2011/10/31
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