... キーダルフにて ...
←[BACK] [TOP] [NEXT]→

 低くけれど耳心地の良い声が歌い始めた。

 古い古い言葉が紡がれていくにつれ、歌い手の右手にはめられた指輪が白い光を帯びはじめる。手が空間を撫でるように走るとその軌跡を追うように光で紋様が描かれ、足元にあらかじめ描かれていた円陣が淡く青い光を帯びる。歌い手たる青年の足元を中心に描かれた紋様に沿って光はゆっくりと広がりはじめた。

 時折響くリーンと鈴が鳴るような音は、空間を跳躍する魔法特有の現象なのだと、いつだったか説明されたことをシュウは思い出した。
「目を閉じて」
 淡く空へ立ち昇る光を追えなくなるのは名残惜しかったが、隣で囁く声に従い両目を閉じた。
 刹那、ふわりと。
 ジェットコースターにでも乗った時のように、体の中身が持ち上げられるような感覚、次いで一瞬だけプールに仰向けで浮かぶような頼りない感覚がやってくる。自分がどちらを向いているのかわからなくなった時、リンと、鈴の音が一際大きく響き渡り、足の裏に硬さを感じた。
「うわっ」
「大丈夫か?」
 自分の体重を支えきれず膝が折れよろめいたシュウの腕を、栗毛の青年がさっと掴む。
「ありがとう、レスカ」
「移動酔いだな、大丈夫か?」
 腕を引かれ立ち上がったものの、目が回ったようにくらくらする頭に手をやりシュウはため息交じりに礼を告げた。レスカと呼ばれた青年は、楽しそうに深青の瞳を瞬かせると、シュウの黒髪をがしがしと撫でまわす。
 レスカトールという名の青年は、シュウより八つ年上で実の兄のように慕っている相手だ。明るい栗毛に、海のように深い青色の瞳が印象的で、表面に無数の傷が走っている革鎧と濃い青のマントを身に着けた、冒険者だった。
「結構な距離を移動したからね、仕方ないよ」
 典型的な症状だねと、けらけらと笑うのは先ほど歌っていた青みがかった銀髪の青年だった。
 彼の名前はシアネドといい、ユイフからキーダルフの町へと移動魔法を使った張本人だ。この世界の魔法使いは身分証明と魔法の媒体を兼ねて、己の腕もしくは背丈と同じか少し長い杖を手にしている。シアネドは杖の代わりに、右手の薬指にはめられた指輪を魔法の媒体として利用しているようだった。
 灰色のフード付きの丈の長いマントを身に着ける姿は、お伽噺に出てくる魔法使いのようだとシュウは思っている。
「一度慣れたら平気だけど、それまでが辛いのよね」
 心配そうに眉を下げ、シュウの黒髪にお大事にと手を伸ばす女性は、ユイファンだ。
 背伸びして、シュウの頭に軽く右手を伸ばすと「アステ」と短く口にして、左手で小さな印を切る。ひやりと触れられた頭に冷気を感じ、それまで感じていためまいが嘘のように消え去る。
「ちょっとしたおまじない」
 金髪を揺らして微笑む彼女は胸元の銀十字を示す。
 銀十字が意味するのは、月神ティアを信仰し仕えているということだ。
 レスカトール、シアネド、ユイファン。
 この三人は、この世界でひとりぼっちであるシュウの貴重な仲間だった。

 * * *

 移動する前と大差なく見える室内は、床にシュウがひとり横になってもまだまだ余裕があるほどの円陣が描かれている。
 描かれている紋様は特殊な染料を使っているらしく、魔力とやらに反応すると光を帯びるが、それ以外の時は暗く沈んだままとなる。
 床は石を切り出し磨かれているようだった。壁も同じ材質で、少しぼけてはいるが床よりもきれいに、鏡のように見る者の姿を映しだした。
 鏡に映るのはやせっぽっちの少年だ。
 ひょろりと伸びた背と手足だけは立派な。
 伸ばしっぱなしの黒髪は頭の後ろ、うなじのあたりでひとつに纏められている。黒の羊毛コートの丈は太腿あたり、その下は着慣れた冬用の白シャツだ。目立たぬよう当て布で補強された黒の厚手のズボンに、履きなれた革のブーツ。頭には薄茶の帽子と背には着替えや必要品を詰め込んだ荷物袋。
 肌の色素が薄くどちらかといえば彫の深い顔立ちのレスカトールたちと並べば明らかに人種が違うとわかる、黄色がかった肌色に浅い顔立ち。たれ目がちの、黒に見える焦げ茶の目。
 それが、十二年前に日本から異世界シルエスト・アーレイアに落ちてきたシュウだった。
 かつては山本修司と名乗り、今はシュウ・イスターシャと名乗る、異質な存在だ。

「まあ、とりあえずいこうか」
 軽く背を押すようにしてレスカトールが先頭を切り、シアネド、ユイファンと続いて扉へ向かう。
 シュウは足元の円陣に視線を一瞬だけ落として、そのあとに続いた。

 レクナー冒険者協同組合キーダルフ支部――そこが、ユイフを経由してやってきた場所の名前だった。
 待機していた案内人に続き転移部屋を出た途端、それまでの静寂さが嘘のように様々な音が飛び込んできた。
 係員が誰かを呼ぶ声。冒険者たちが交わす雑談や身に着ける鎧や武具がたてる音、出入りするたび鳴る鈴の音――それらで酷く騒々しい。
「……エステラの比じゃないね」
「あれ、キーダルフに来るのは初めてだっけ?」
 シュウの呟きを拾ったらしいユイファンが小首を傾げる。
「うん。エステラの魔術師組合から直行で記念館には行ったけど、キーダルフははじめて」
「ああ、なるほど。シューデか。じゃあ規模に驚くね」
 楽しそうな口調のユイファンに同意を示しレスカトールは行こうと促す。
「俺らもあんまりこっちにこないけど、エステラよりも人口多いから賑やかというか華やかというか、大都市って感じなんだよな」
 冒険者協同組合の入口はキーダルフの大通りに面していた。
 秋のさわやかな風がシュウたちを歓迎するかのように駆け抜けていく。
 エステラは大陸の玄関口としても交易都市としても名高く、各地から商人や冒険者が集まるが、シュウの視界に映る限りその比ではなかった。
「こっちじゃ五本の指にはいるくらい栄えてる都市だしね。エステラの規模と比べると軽く二倍は広さも人口もあるんじゃないかな」
 とんとんと軽やかな足取りでシアネドは階段を下りると、くるりと振り向き言葉にあわせてわっと両腕を広げた。銀髪が風に弄ばれるのもくすくすと笑い受け入れる。
「しかも! 各大陸を結ぶ定期船もあるから冒険者が集まるんだよね、依頼遂行に便利だーって。あと何年かしたら転移魔法でも各大陸や都市を結ぶとか聞いたなぁ」
「あれ、直行できたの? 僕はできないって思ってたんだけど」
「結構大々的に宣伝してたぞ。先月から定期船就航だって。エルディス・キーダルフ間だから俺らにはあんまり関係ないし」
 おっかしいなとレスカトールは首を傾げつつ、通りの先を指さした。
「とりあえず、だ。ヒューと落ち合う店に行こうか」
 月夜の宴亭だと宿名を口にすると、レスカトールは先陣を切って歩き始めた。

 はじめて訪れたその街並みは綺麗に区画整理されていた。
 一定の幅の道がまっすぐに伸び、特に大通りでは人と荷馬車の通行区分もされているようだった。足元は色違いの敷石で模様を描くように舗装され、日本でみるような雨水の排水用か、蓋をされた側溝らしきものも見受けられる。
 車道を走る馬車は荷物や人が満載され、砂埃を立てどこかへと走り去っていく。
 歩道に至ってはキーダルフの住人だけでなく、荷物を担いだ商人や武器を携帯した冒険者たちが幾人もいた。
「このあたりは一般向けの通りで飲食店とか、あと役所関係があるんだ。で、西の大通りを中心とした区画は冒険者が多い。目的地もそこ」
 レスカトールたちは、キーダルフははじめてだというシュウに歩きながらつらつらと説明をしていく。
「百八十年だっけ。それくらいでここまで大きくなったんだ?」
 百八十年という年月は、こちらの世界では重要視されている。
 シュウが意思疎通が出来るようになってすぐに教えられた歴史だった。
 言葉の壁に阻まれて未だ全てを理解しているわけではないが、かつてこの世界は霧の壁によって四つに分断されていたらしい。
 何がきっかけだったのかおおよそ百八十年前に、突如霧は晴れ世界はひとつになったのだという。
 初めて聞いたときはそれこそ、何かの物語のようだと感じたのを今でも覚えている。
「そうそう。当時の王様肝いりの政策でねー。戦争明けで国も民も疲弊してたけど、王家所有のもので金になりそうなものは避暑地の別荘から王宮に飾られた絵画、それこそ王様の服までぜーんぶ資金にして、国を挙げての一大事業!」
 得意げに歴史を語るのはシアネドだ。
「当時は無駄遣いだと言われたらしいけど、今じゃ人や荷を受け入れられる態勢を整えた点も含めて、他大陸ですら名君だと称えられているのよ」
 次いでユイファンが付け加えた。
 それから、話題は今夜の宿の話へ移り変わる。
 キーダルフの名物は海に面した街らしく、水揚げされたばかりの魚を使ったものが主で、待ち合わせにした宿でも夕方になると様々な料理が出されるのだという。
 たわいもない話を続け、街の中心部へ足を踏み入れる頃合い。

「――――…」

「あれ……?」
 呼ばれたような、そんな気がしてシュウは足を止めた。
「どうかしたの」
 雑踏を歩む一行でそれに気が付いたのはユイファンだった。
「えっと、気になることがあって」
 ひどく懐かしい響きを耳にした気がしたのだ。
「……そこは邪魔になるし端に。レスカ、シア!」
 うまく説明できないもどかしさに口をつぐむシュウを見、仲間に声をかけると彼らは通りの端による。
「どうした体調でも悪いか?」
 青い顔していると指摘され、シュウは苦笑して否定を告げる。
「――――」
「まただ……」
 先ほどより、少しだけ近い。
 どう答えるべきか言葉を探す合間にも、仲間たちは気遣う様子こそ見せれど、急かすことはなくじっと待ってくれている。その様子に安心し、言葉を続けようと唇を舌で湿らせた時、一瞬、微かな振動が伝わった。
「魔術、誰か使った」
「……先に行く!」
 ぽつりとシアネドが漏らした途端、言い残しレスカトールが小道へ体を躍らせた。
「ちょ、レスカ先走りすぎ! ああもう! 追うぞ、ユイは周囲を警戒して、来いフィノ、レスカの援護!」
 中指の指輪を輝かさせ一瞬で魔法を完成させると、フィノと呼ばれた淡い緑色の光を呼び出す。前方を示し追跡させると、シアネドはローブを翻し駆け出した。
 街中で魔法を駆使する青年の姿と二度目の揺れとそれに伴った煙に、周囲の冒険者もざわめきはじめた。
「行こう。声もあっちだよね」
 心配そうに気遣いながらシュウの手を取り走り始めたユイファンは、遠くに見えるシアネドの姿を追う。
「うん、あっち!」
「何て言ってた?」
「ええっと、助けてと死なないで」
 ぎゅっとユイファンの手に力が込められて、その顔を伺えば、安心させるようににこりと笑んだ冒険者がいた。
「大丈夫、なんとかするのが私たちだから」
 そう言って少しだけ駆ける速度が上がる。
『いやっ、死なないで!』
 遠く聞こえた懐かしい響きを伴うその声は、酷く切羽詰まっていて。
 大通りから細い通りを四本横切った先、
「嘘だろ、魔物」
 剣を抜き放ったレスカトールの背中越しにその光景を目にして、シュウは呻くように洩らした。

 丁度十字路になるその場所は、シュウたちから見て右手側が少し行けば行き止まりになっていた。そこには怪我をしているのか庇われるように一人、彼を守るように二人が立っていた。左手側には地に横たわった青年と、縋るように泣く黒髪の少女。
 そして、正面に犬のような姿をした生き物が五匹いた。
 大きさは尾を除けば、大人が両腕をいっぱいに伸ばしたほど、高さは大人の膝より少し上。乱杭歯のあいだから真っ赤な舌をちろちろ伸ばし、おぞましい呻き声をあげている。
 それは<魔物>とひとまとめにして呼ばれる生き物だった。
 何かを恨んだり、絶望したり、妬んだり。
 暗く淀み歪んだ思いを、シルエスト・アーレイアの住人たちは負と表現する。
 それは生きている者に影響を及ぼすことはほとんどなかった。
 けれど死んだ者に対しては絶大な影響を誇り、それが時折死体を魔物として蘇らせることがある。シュウの知る言葉で表現するならば、アンデッドと。
 眼前の<犬>もその一種なのだという。
 何らかの形で死んだ犬の体を、負の力が乗っ取った。体の本来の持ち主が抱え込んだ思いを糧にして。

 <犬>は警戒するように闖入者たるシュウたちを睨み唸りを上げていた。
 威嚇とばかりに煌くの白銀に、グルルと掠れた声が上がる。
「シア、ルーフェ」
 シュウの耳に届いたのは低い声だった。
 タンと石畳を蹴ってレスカトールは<犬>の元へ駆ける。同時にシアネドは先ほどの淡い光を呼び戻すと、レスカトールを左回り追い抜いて牽制する。
 左の通りを封鎖するように。
 だから、
「シュウ、行け」
 シアネドの声と同時に駆け出す。
 視界の隅で再び銀色が煌く。ぎゃんと上がった悲鳴を背中に受け、動けないでいる二人を目指す。呆然と座り込んだままシュウを見やる少女を立ち上がらせ、その間にユイファンが意識を失っているであろう青年を診る。
「大丈夫?」
「命に別状はないと思うけど、怪我した時の様子がわからないわ」
 黒髪の少女が当てたのだろうハンカチは、青年の頭部にあてられて真っ赤に染まっていた。その上からユイファンは手をかざして短い詠唱と共に癒しの術を施す。
 祈るユイファンの声は悲痛だ。
「魔物は任せればいいけど、あっちの人も心配だし、追い込んでくれれば……」
 向かい側にいる若者は、青年よりもさらにぐったりしている。
「助けないと」
 ユイファンが呟いた先では、レスカトールが二匹目の<犬>に止めを刺した瞬間だった。
 飛びかかった<犬>に振りかぶられた切っ先が両目を抉るように切り裂いて。哀れにのた打ち回る<犬>の頭部に、止めの一撃が加えられた。レスカトールは慣れた動作で肉塊を蹴り飛ばし剣を抜くと、軽く振り駆け出す。べしゃりとどす黒い血が石畳に紋様を描いていた。
 残る魔物は三匹で、向かいの通路の若者も各々魔法や武器を構えて討伐にあたっている。

「……こっちはなんとか、する、から行け」
 あっという女の声と、男の途切れ気味の声が響いた。応急処置を受けた青年だった。
 肘をつき上体を起こそうとして、シュウと黒髪の少女とで手を貸し座らせてやる。
『よかった……死ななくて』
 少女は安心したように手の甲で目元をぬぐっていて、シュウは「本当に」と一言だけ日本語で返し、男へ向き合う。
「起きて平気?」
「一応は。そっちの、金髪のお嬢さんは癒し手だろ? 黒髪のお嬢さんとこのチビくらいなら守ってやるから、あっち行ってやれ」
  「……ごめん、頼んだ。シア!」
 青年が胸元のペンダントを指させば、ユイファンは頷き、銀髪の魔法使いに一言だけ呼びかけて通路を駆けていく。それに反応した魔物は放たれた矢で縫いとめられ、追撃の火の魔法によって悪臭を放ち絶命した。
「さーてー、お返ししますかね」
 少しだけふらつきながらも立ち上がった男は、シュウと目が合うとにやりと笑った。
「もうすぐ片付くけど」
 既に残り二体で、そう掛からず魔物は片付けられる。
 青年は問いかけに「騎士団」と短く答えると、左手を前に伸ばして口を開く。
「"我が血に流れる古き契約"」
 ぴんと空気が張り詰め、少女が混乱したようにシュウの服を掴む。
 青年の足元に風が渦巻き上掛けの裾がふわりと揺れた。シアネドが濃青の双眸を男へ向ける。遠くでユイファンの詠唱と、魔物の唸り声が混じって聞こえた。
「"例えこの身朽ちても、この血絶えるその日まで、繋ぐ、遠き約束。友よ。カデナを祖とするエストゥールが一子、カザリが呼びかける。リャンシェ、今ここへ"」
 リーンという鈴の音がして、
「精霊使いか!」
 シアネドがそう叫ぶと同時に当初の半分以下になった魔物の群れの上に赤い羽根の鳥が表れた。
「騎士団が来たぞ!」
 誰かが叫ぶのと、鳥が放った火の矢が魔物を貫くのはほとんど同時だった。
「撃ち漏らし任せた!」
「任せな」
 叫んだ男の声にレスカトールが答えて、傷を負った最後の一匹をその剣で貫き。
 騒ぎを聞きつけたキーダルフの騎士団が到着した時にはすべてが終わっていた。

 * * *

 転がった魔物の残骸と返り血を浴びたレスカトール、それから二人の怪我人とその他という集団を見て、やって来た騎士団員は彼らに詰所への同行を求めた。
 事情聴取ということだが、当然の結果だろう。
 詰所へ着くと一行は事情聴取として会議室へ通されたのだった。シュウと少女を除いては。
「ご同行者様がお迎えにいらっしゃるまで、こちらでごゆっくり」
 どこか緊張した様子で団員の一人は、彼と彼女を案内すると、固い動作で一礼し立ち去った。
 大人たちは事情聴取として呼ばれる間、シュウと暫定イスターシャとされた少女の二人は別室で待機することになった。
 通された部屋はそこそこの身分を持つ者への対応用らしく、学校の教室ほどの広さで、中央に三人掛けと二人掛けのソファが置かれている。
 窓際ではレースのカーテンが風に揺れ、午後の強烈な日差しを和らげている。壁には神話をモチーフにしたであろう絵画が飾られ、その下の調度品は細かな紋様が掘り込まれた、シュウが見ても高級ではないが質の良いものが置かれていた。黒を基調としたチェストやテーブル、ソファなどで落ち着いた印象を持つ部屋だ。
 待っている間にと出された紅茶からはよい香りが焼き立てらしいクッキーの匂いとともに室内に漂っていた。
 テーブルの真ん中には硝子の花瓶に、来訪を歓迎するという花言葉を持った黄色い花が三輪飾られている。
 恐らくは、日本に存在しない花だ。

 シュウは通路側に、テーブルを挟み少女は窓際に対角線上に腰をおろしていた。
 互いに話しかけづらいのだろうか、居心地の悪い沈黙が続き、少女が手元の四角い端末に視線を落としたまま、十数分が経っていた。
「……あーと」
 居心地の悪さに、口を開いたのはシュウだ。
 一番状況を理解し、そして会話できるのであろう人物は彼一人しかいないだろう。
 少女は端末から視線を離しシュウと視線が交わる。
 少女は若い。
 シュウより二、三歳下くらいだろうか。
 少し明るい黒髪に日本でよく見かける黄色い肌。
 近所のお姉さんが着ていたような、白い三本のラインが縫い付けられた紺色の襟のセーラー服にチェックのスカート。傍らには赤茶色の革の通学バッグ。使い込まれたその表面は傷だらけで、可愛らしいシールが貼り付けられている。
(どう考えても同郷なんだよな)
 はじめに聞いた声らしきものは確実にこの少女のものだろうし、なにより発せられた言葉は日本語だった。
「ぼくの言うことわかるよね」
「ええ、貴方は日本…人なの?」
 試しに問いかければ少女は確かに日本語で返答した。
 黒い双眸には不信と警戒の色が混じっているようだ。
「うん。ぼくは日本人。名前は山本修司。君は?」
 伝えたい言葉を少ない語彙から探し出し、口にしながら、不謹慎ながら頬が緩んでいく己を自覚して心の中で苦笑する。
 日本人だとそう口にすることも、日本語を理解してくれる相手がいることも嬉しく感じる。自制できないのだ。
 己の喉がきゅっとしまり熱くなるのを感じながら、シュウは少しぼやけた景色を移す目元をぬぐう。
「キノシタユウリ。高校生……」
 ユウリと音にせず転がして、日本語を堪能する。
 己以外が鼓膜を震わす音が懐かしくて、嬉しくって、思わずシュウは目元を覆って天を仰いだ。
「まさか、会えるなんて」
 喜びの滲んだ掠れた呟きに、状況を理解できないもう一人のイスターシャが困惑したように首を傾げた。
「ええっと、ごめんなさい。山本さんにお聞きしたいのですが、ここはどこですか? 言葉は通じないし……」
 不安そうな少女ユウリに、シュウは言葉を詰まらせ視線を彷徨わせる。
 言うだけなら簡単なのだ。
 ここは地球でも日本でもない違う世界だ、と。
 けれどそう言ったところで誰が信じようものか。
 何より懸念しているのは、シュウの日本語能力だ。
 せいぜいが八年程度。母語とはいえ語らう相手もなく語彙能力なんてたかが知れている。
 今でも頭の中で反芻しあっているか不安に思いながらの会話を行っているくらいだ。
「大丈夫ですか……?」
「ああ、うん。心配かけてごめんね」
 沈黙するシュウを心配するようなユウリに笑いかけて、それからコホンと咳払い。
「多分信じられないと思うんだけど、ここは日本じゃないし、地球のどこでもない。ここの人は、えーっとシルエスト・アーレイアって呼んでいる場所で、それで日本なんて地名は誰も知らないんだ。
 信じたくないならそれはユウリの自由だけど」
 一息に吐き出して、疲れたと小声でつぶやく。
「……本当に?」
「夢とかドッキリ企画とかだったら、幸せだよね」
 答えて、たどたどしい一音ずつ発音を確かめるような話し方で説明を重ねていった。
 言葉も歴史も文化も違う世界であること。
 頻繁ではないが一定の間隔で、シュウやユウリのように他の世界からこの世界へ迷い込む人間がいること。
 そういった人間は、出身地を問わずひとまとめに<イスターシャ>と、日本語で言うならば「言葉の通じない者」と呼ばれ、現代においては手厚く保護されることを。
「うまく説明できなくてごめん。状況はわかった?」
「言いたいことは、だいたい。つまり、アリスとかナルニアみたいな感じなのでしょう? 霧の向こうは不思議な世界でした、って」
「うん、それに近い!」
 兎を追ってきたわけではないけれど、雰囲気的には似てるなと、そんなことを考えた。
「それじゃあ、電波も通じないか」
 ユウリは手元の端末に視線を落とすとため息をつく。
 淡いピンクの外観の端末を握る手が少し白くなっていた。
 顔色も少し悪い。どこか落ち込んでいるようなそんな雰囲気だった。
「これから、どうなるのかな」
「……とりあえず、なんていうのかな、身元? の登録かなぁ。今はだれかわからない状態だし」
「山本さんは?」
 ふいに呼ばれて、シュウははにかんだ。
 こちらに来てから、山本と名字で呼ばれたことがほとんどないからだ。
「ぼく? ぼくは」
 口を、開いた時だった。
 ノックと共に入室許可を求める聞きなれた声。 「ごめん、ちょっとまってて。ツァーレ」
 どうぞと呼びかければ、遠慮がちにレスカトールたちが入ってくる。

 * * *

 一番最後に部屋に入ったのは、あの青年だ。

「お疲れ様、大丈夫だった?」
「一応なんとか無事に、ね」
 シュウの言葉にシアネドは肩をすくめて答える。
 他の面々も皆疲れたような表情を浮かべ、解放されたことにどこかほっとしている様子だった。
 ユイファンは二人掛けの椅子に真っ先に腰をおろし、ぱっと顔を輝かせクッキーに手を伸ばすと、「疲れたねぇ」とユウリへ話しかけた。
 それを見てレスカトールは座ろうと促し、使用人が持ってきた予備の椅子に件の青年が腰かけ、ユウリの正面にシュウが、その隣にレスカトールとシアネドが腰かけた。
 使用人は紅茶を配ると退席していった。

 事情聴取に参加しなかった二人のイスターシャのために、各々簡単な自己紹介をし、シュウはユウリのために日本語に通訳した。
 頭に怪我をしていた青年はカザリ・エストゥールという名で、シアネドと同じ精霊を使役する魔法使いなのだという。最初に出会ったときに身に着けていたくすんだ赤色の布帽子は、今は鞄の上に投げ置かれている。シュウよりも少し明るい黒髪に、黒に近い蒼色の瞳をしている青年で、左目の下に刻まれた刺青が白い肌で異様な存在感を示していた。

「あの騒ぎの調書の件についてはまぁ宿で報告する。お咎めも何もなく無事に終わったよ」
 シアネドは簡単に、取り調べはおわったことを告げ、それから興味深そうに瞳を細め、ユウリへと視線を向ける。
「それよりも、そっちのイスターシャの問題のが先だ」
 シアネドの視線の先ではユウリが俯いて座っていた。
「保護の件だよね」
「そういうこと」
 保護されたイスターシャは、通常シューデの町へ向かい、そこでイスターシャとしての登録を行う。それにより、イスターシャであると身分を証明され、各種恩恵を受けることができる。
 シアネドが言うのはその手続きのことだ。
『さっきの身分登録のこと? 戸籍みたいなもの?』
『今だと誰かわからないから、外国に行けないんだ。だから、登録する。多分、ユウリの言うのが近いと思う』
 簡単に翻訳してやれば、わかったとユウリは了承する。
 それを皆に伝え、ユウリと冒険者たちとの間を通訳して取り持ちながら、明日朝一番にカザリがユウリを連れて出立することを決定した。

「それで、だ」
 口を開いたのはカザリだ。
 予備の椅子に座った彼は、腕を組みため息交じりに通訳の一時停止を求め、続けた。
「通例だったら、この場にいる人間だと俺がその子、ユウリだっけ? 彼女を連れて行くのが筋なんだけど、今回はその言葉が通じてるから」
「つまり、どうせ手続き終わるまで長くても三日くらいでしょ? 意思疎通できる人がそばにいると安心するだろうし、手続き終わるまで同行しませんか? っていうお伺いなのよ」
 どうかしらと、斜向かいにすわったユイファンが小首をかしげる。
「あくまで俺らの意見なんだけどね。その点は全部シュウの判断に任せる、お前だって早く聖域に行きたいだろうし」
 レスカトールは、くしゃりとシュウの黒髪を撫でて笑う。
「なーんだ、そんなこと」
 見知らぬ世界に放り出された、その不安をシュウは良く知っている。
 はじめて日本語を見かけたときの感動も、絶望も。
 シュウは泣いたのに、取り乱すそぶりを見せない少女が、内心不安には思っているであろうことも。
「もともと僕は同行するつもりで話してたよ。だから当然一緒に行くよ」
 今更だよと付け加えてけろりと笑う。
 言葉の通じない心細さなんて味わいたくはない。
 だからこそ、もうひとりのイスターシャに同行することを承諾したのだ。
「ありがとう、シュウ。本当にいい子だわ」
 シュウのその宣言に嬉しそうにユイファンは赤い双眸を和ませて笑った。
 カザリもどこかほっとしたように頷く。
「方針も決まったし、長居すると迷惑だから宿で打ち合わせ……ってカザリは泊まるところってあるんだっけ」
 なかったら僕らとどうかとシアネドが問いかけると、カザリはゆるゆると首を振って、滞在予定ではなかったのだと伝える。
「まぁそうだよね、了解」
 答えに微笑んで返し、それから荷物を手に一行は部屋を後にする。
 来た時と同じように廊下を抜けて詰所の外へ出た。
 思っていた以上に時間が経っていたようで、青かったはずの空は茜色に染まっていた。昼間見えた双つ月はもう妹月しか残っておらず、赤い空の片隅でぽつりと寂しく輝いている。

『もう夕方か』  思わずと漏らせば、傍らでユイファンが同じ事を口にしていた。
 そのことにくすりと笑うと、
「同じこと言ったの?」
 と不思議そうに聞いてくる。肯定して二人で顔を見合わせて笑った。
『それじゃあユウリ、行こうか』
 一番最後に出てきた少女に並び立ち、先を行く大人たちの後に続く。
「じゃ、私は先に」
「ごめんね」
「ううんー」
 外套の裾をふわりと風に揺らす彼女の背を見送り、シュウもゆっくりと歩き出す。
 先頭に立つのはレスカトールとシアネドで、何かを相談しているのか手振りも交えて歩いている。その次にカザリ。部外者だった彼に追いついたユイファンが、何かの話題を振ったのか会話を始めた。
 そのあとにシュウとユウリが続いた。
 会話はなく、シュウは少女を気にしながら、そして彼女は鞄を手に少し俯いたまま歩く。
 夕食時の通りには、冒険者の姿よりも買い出しに来ているのであろう住人の姿で賑わっている。
 通りに面した飲食店からは食欲を誘う香りが漂い、商店では生鮮品の安売りが始まっていた。
『かわらないね』
 つぶやかれた言葉にとっさに反応できないでいると、
『夕方になると安売り始まったり、とか』
 と、付け足して微笑んで言う。
『あー言われてみるとそうだね、似てる』
 遠い記憶の彼方で、商店街を歩く母が声を掛けられていた姿を思い出す。
 ユウリの言うとおり、たしかにかつてみた光景に近かった。
『ここって、日本じゃないんでしょ? 食べ物とかってどうやって保存してるの?』
『魔法があるし、あとあんまり見かけないけど機械もあるんだけどね』
 それを前提に簡単に説明してやる。
 仕組みまでは興味は持たなかったが、ユリスの店にも魔法を使った小型の冷蔵庫のようなものがあり、そこで食材の保管を行っていたのを知っていた。
「ね、こっちって魔法とかで食材保管してるんだよね」
「そうよ。専門外だけど、範囲内の温度を下げてどうたらってことだけどね」
「あれの仕組み知りたいなら解説してやるけど?」  にやにやとカザリは笑んでいうのに、遠慮するとシュウは首をふって示した。
『よかった。他の人と姿も似てし……生活には困らないのかな?』
 どこかほっとしたような言葉に視線を向ければ、ユウリは眉尻を下げ少し泣きそうな顔を浮かべていた。俯き気味のせいで、はっきりとは見えないのだけれど。
『ほら、僕でもここで生きてけたし、大丈夫だよ』
 慰めにもならないことを言って、慌てて彼女から視線を外す。
 視界の隅で目元を拭う姿が見えたからだ。
「え、あ、だ……大丈夫!?」
 嗚咽を漏らす少女の姿にドクリと心臓が跳ねて、どう対処したらいいのか視線を彷徨わせる。それに気付いたのか、ユイファンがゆるゆると首を振る。仕方ない、ということだろう。
 歩みを遅らせた彼女は、ユウリに並ぶと鞄からハンカチを取り出して差し出す。
「元の世界に、絶対還してあげるから」
 わからないと知っていながら、ユイファンは声をかけあやすように頭を撫でていた。

 * * *

 冷めた視線で、カザリは彼らの様子を見ていた。

 先に行ってくれと言い残し、隣で話していた女性は歩みを止めた。
 後ろを歩く少年たちの元へ行き、彼女は鞄をごそごそとして何かを差し出していた。手元こそわからなかったが、涙を浮かべる少女への対応としてはごく当然の行動であることはわかるし、涙の理由も経緯を考えれば当然だ。通りすがる人々が彼女たちに向ける奇異の眼差しから庇うように少年が位置を変えたのも、自然な行動だと思った。
 仮にカザリ自身がその場にいてどの立場であっても同じ事をしていただろう。
 目元をぬぐう少女も、通訳をしていた少年も、外見的には、傍らの女性と変わらない。
 顔立ちや肌の色、体格が違うのも、それは年齢差や地域、部族差によるものであるし、閉ざされていた大陸の者と言えば十分に許容範囲の差であろう。他の地の存在が明らかになって百八十年余り。けれど交流がはじまってまだ百年にも満たない。外へ出るのは好奇心旺盛な、或いはそれしか方法のなかった冒険者と呼ばれる人種と研究者が大半。
 一般人は実情を知らないからこそ、常識がないだとか言葉が通じないだとか、それについてはいくらでも言い訳ができると考える。
 不気味なのは、彼らが何の力も持っていないことだ。
 薄目にして意識すれば肉の器から漏れ出す魔力の流れが見える。どんな僅かな魔力しか持たないものでも、髪と瞳に色を持つものならば必ず見えるものが二人にもない。
 はっきりと黒の双色を宿しているのに。
 現にユイファンと名乗る金髪の女性からは、淡く白い光が見えるのだ。
「世界で二人だけの異質、か」
 イスターシャには魔法を扱えない者がいると伝承で知ってはいても、実際に見ると奇妙な焦燥を覚える。
 過去、落ちてきたイスターシャは環境の変化に耐えられず三日と持たずに死んだ例があるとも聞いていた。
 ユイファンによれば少年は一巡りの間この世界に適応して生きているという。
(過去、落ちてきた者でも長生きしたものはいるらしいが)
 彼らは異質な存在だ。何の偶然か神の意志か、よく似た容姿を持っていても、違う世界の生き物なのだ、所詮。
「異質って、彼らのことかな?」
 そう考えた時だ、後ろから声をかけられたのは。
 肩を震わして振り返った先、騒ぎに気付いたのか、先行していたはずの二人のうち、銀髪頭の青年が立っていた。もう一人、レスカトールの姿はない。
「ああ、レスカなら先に宿に。いい加減待たせるのも悪いってね」
 彷徨わせる視線に気づいたのか、くつくつと喉を鳴らして青年――シアネドは笑った。
「で、異質って?」
「……魔力無しなのに色持ちなんだなってね」
 端的に答えると、彼は口角だけをあげて笑った。冷め切った濃青の双眸がカザリを捕える。
 風に翻る外套の裾を鬱陶しそうに払いのけていた。
「知らない世界の住人だし、こちらの常識に当てはまらないこともあるね。君はあれかな、魔法至上主義者?」
 並べばカザリの頭半分背の低いが二、三歳ほど年上だろう彼は、見下すようにせせら笑う。
「差別主義者と同じにすんな」
「組合の頭のお堅ーい大先輩方がよく魔力云々とか言ってるよね」
「ぐっ……言葉は確かに悪かった。別に差別だとかそんなつもりはなかった」
 単純に、理解できないものが気味が悪くて怖いだけなのだ。
 素直に吐露すると、銀髪の魔術師は同意を示すかのように頷く。
「まぁ、それは分からなくもない」
 シアネドの濃青の瞳は二人の異質に向けられている。
 落ち着いたのか、或いは強がっているのか笑みさえ浮かべる少女に、他の二人はほっとしたような表情を浮かべていた。
「不思議だと思わないか」
 視線は異質に向けられたまま、低く落ち着いた声で青年は告げる。
「過去に落ちてきた者には異形の者がいて、適応せず死んだって組合文書に残っている。もちろん僕らみたいな容姿もいて、それがまぁ奴隷だとかにされてたわけだけど」
 魔術師組合に所属しているならば見ることのできる記録、カザリでさえも知っている常識を語る青年の意図が読めず、困惑する。
 当の青年は冷たい青をシアネドに向けると口元だけをゆがませた。
「彼らに一番良く似ている種族は僕らヒューネイアだ。<神ではない>という名の通り、創造神の姿に似せたと言われているよね。それじゃあ、その僕らそっくりなイスターシャってさ」
 何者なんだろうね。
 その意味では確かに二人だけの異質は正しいと言い切って、くつりと喉を鳴らして笑い。
「シュウ、ユイファン、ユウリ。そろそろ行くよ!」
 一瞬でお人よしな魔法使いの顔をして、彼らを呼んだ。
 跳ね放題の銀髪を押さえつけ、踵を返す一瞬、
「あれは僕らだけの秘密で」
 反応できないでいたカザリに口元だけの笑みを向けると、シアネドは一人先を歩き始めた。

「カザリさんどうかした?」
「あ、いや……なんでもない。行くか」
 シュウに呼び掛けられ、ゆるゆると首を振り何でもないと笑いさえ浮かべると、彼らの後に続くように今日の宿へ向かう。
「<彼ではない>なら何者か……か」
 小さくつぶやかれた言葉は誰にも拾われず、夕闇の迫る雑踏に零れ落ちた。


←[BACK] [TOP] [NEXT]→

掲載日:2020/05/14 初出:2012/06/07
小説家になろう、掲載分より
Copyright (c) Itsuki Kuya All rights reserved.