その子の姿はかつての自分のようだと、呼びかける魔女とその部屋の主を見て思った。
何も信じられず、誰を信じていいのかわからず。
現状を不満に思っているけど、それを打破できるほどの力もない。
だけど、その現状を素直に受け入れられるほど強くもなかった。
そうして、自分の中に閉じこもったのだ、かつてのリーンも。
彼のために用意されたその部屋で、彼は、外界を拒むようにカーテンを引き閉めきった室内に籠城しはじめた。
「耳を塞いで目を閉じて、現実から逃げるのは君の勝手。
だけど、手を差し出されても君はそれに気づけないよ」
暗い部屋にひとり閉じこもる少年に、魔女は呼びかけたけれど反応がかえることはなかった。
「辛いのはわかるの。だけどあのままじゃ、こうした意味がないわ……」
リビングに戻りソファに腰掛けた魔女は、左右違う色の瞳を伏せ途方に暮れたように心境を吐き出した。
普段、自信に満ちた表情を浮かべる彼女を見慣れているだけにそれはどこか新鮮で、同時に深刻なのだと理解する。
数日前、唐突に魔女がラズのアトリエを訪れた。
同じ大陸に拠点を構えてるとは言え、ラズやリーンはひとつの村に定住し、
魔女に至っては組合やギルドの依頼次第で大陸から大陸を渡り歩く。
多忙な魔女は時間があるときに訪問することはあれども、それは事前にいつも連絡があった。
訪れた魔女はいつもの黒髪の相棒ではなくひとりでやってきて、開口一番「力を貸してほしい」と申し出た。
アトリエの主は黒布に隠されていない目を瞬かせながら、詳細を聞き出し、そしてリーンを派遣することを即決したのだった。
そんな魔女の願いは非常に簡単だった。即ち、少年を部屋の外に出す、もしくは食事を取らせること。
先日の事件で保護された少年を引き取ったはいいものの、口もきかず食事も取らず、部屋に閉じこもったままだと。
せめて食事をとってもらいたいが、強行したくはないのだと。
それを聞き、リーンはぴったりの人材だったのだなと、思った。かつて、自分がそうだったから。
魔女のアトリエに移動したあと、彼女は少年についてと現状を改めて説明した。
ウィルと名付けられたその少年は、とある人体実験の被害者なのだと言う。
実験の被験者とされたのは今回だけで二十人。首謀者の残した資料によれば過去に何度か同じ実験を行っていたらしい。
その全容は未だ解明されておらず、最終的に被害者の人数は三桁近くなってもおかしくない、ということだった。
そして今回の生存者は少年を含めて八人。最年少だった少年にはよほどショックなことだったのか、
日常生活に必要な知識だけを置いて、すべてを忘れ去っていた。
「いきなり環境が変わったんだ、立ち直るまで時間はかかるさ」
勝手知ったる他人のアトリエ、手早く紅茶とクッキーを用意して、深刻な表情で溜息ばかり吐く彼女に差し出す。
魔女は謝罪を言葉にして受け取ると口を付け、また溜息を吐いた。
溜息を吐くと幸せが逃げるというけれど、このままではルディスの幸運とやらはあっという間に尽きるだろう。
そう考えると余り笑ってもいられなかった。
「ルディスさんって、ラズから俺のこと聞いたんでしたっけ?」
「え、ええ。詳しくまではきいてないけど経緯とか、その……」
問いかけにもごもご口ごもる年上の女性に笑って、リーンはわざとらしくとがった犬歯を見せる。
「ま、こういうわけなんで。ちょっとあの子と話してくるよ」
成果は期待しないでね。
そうルディスに伝えたものの、リーンは未だ決心がつかなった。
少年の状況も心境も、かつて自分が感じたものとそっくりだ。
だけど、少年が置かれた状況は彼だけのもので、
外野であるリーンが何を言っても余計に自体を悪化させるのではないか……。それを懸念していた。
「まぁいいか、入るぞー」
決意を込めて深く息を吸い込み、ノックすると同時に返答を待たずに室内に押し入り、わざと力強く扉を閉める。
あっという間に部屋は闇に支配されたが、カーテンの切れ目と、
扉と床の隙間からわずかに差し込む光が思った以上に眩しくリーンは緋色の目を細める。
その目には、ベッドの上のシーツの固まりが一瞬だけ身動きしたのをはっきりと写しだした。
「ルディスさんは怖い人じゃないから安心していいぜ?」
固まりは息を殺しているようだけど、しっかりとリーンを意識しているようだった。
そのままベッドに近づいて、頭があると思われる場所を背に床に腰を下ろす。
石造りの床は冷たくて、尻からひやりと冷気が立ち上る。
「何にも覚えてなくって不安なとこに、知らないやつに引き取ってやるって言われても困るよなー。
状況把握ぐらいさせろって思うわなー。しかもここの大陸の言葉、わかんないだろうし。
だけど、さ。言うように、耳ふさいでたら呼びかける声に気づけないし、
目ぇ閉じてたら差し出される手に気づけないぞ?」
差し出されたその手に気付けないのは、なんて不幸なことなのだろう?
リーンは目を瞬かせながら息を吐く。
もっと早くそれに気がつけばと、今でも思う。そうすれば彼があんな目に合わなかったかもしれない。
あくまで仮定ではあったけれど、少年にはそんな思いをさせたくなかった。
「俺もさ、拾われっこなんだ。
親が死んでるのにラズが――あ、ラズってのが俺の養い親だ。拾われて知らない家に連れて来られた」
なにより先に思い出すのは血の赤。
地面に染み込むその赤と、動かなくなる両親、あざ笑う人の声。
事件当初はぼんやりとしか覚えていなかったそれはほんのつい最近、色鮮やかに蘇った。
リーンは純粋な人間ではなかった。いわゆる吸血鬼と人間の間の子。
それを知ってか知らずか、人間は彼らを襲った。
受けた仕打ちは忘れられないし、もし彼らに出会えば確実に復讐するだろう。
そう淡々と語るうちに、少年はいつしか布団から頭をだし、リーンの話に聞き入っていた。
「日差しに弱いとか言うからな、あいつも何かあったらって思ったのか、無理矢理部屋からだそうとはしなかった。
ただ夜になったら散歩行かないかとか呼びかけてたけど無視した。
俺も怪我で動けなかったし、治るまではいてやるとか、そんな感じでさ。
あいつが何を思ったか、考えもしなかったんだ。それこそ、耳を塞いで目を閉じて、って状態。
俺がそんな状態の間、ラズは何してたと思う? 見知らぬ種族のこと調べるのに大嫌いな教会まで出向いて、
資料を見るって条件でそこの仕事引き受けてたんだよ。
それで死にかけたって聞いた時、はじめて、ラズが何をしていたか知ったんだ。
人間って面白いと思うよ。血の繋がりも縁すらなかった他人の為にそこまでできるんだから」
そう、知ろうともしなかった。
リーンの住むレクナーは教会の勢力が強かった。
基本的に魔法を扱う人間はすべてそこに所属し指令があればそれに従う、それが常識の世界。
ラズは身内の目だということを除いても、優秀な魔法使いだ。
プライドの高い彼は、基本的に自分が信頼しあるいは尊敬できる人間以外の下につくことを嫌う。
その彼が、しぶしぶとは言え誰かの命に従ったのだ。
そして、厄介ごとに巻き込まれ致命傷に限りなく近い傷を負った。
「赤の他人を引き取るのはすごい勇気がいることだったはずだ。
その勇気に免じて、少しは信じてみてもいいんじゃないか?
俺が置かれていた状況と、今お前が経験している状況。それらは決して一緒じゃないし、
あくまで俺が思ったことだから今お前が思っていることとは違う。
違うけど、ラズとルディスさんそれぞれが思ってることは同じなんじゃないかな」
言って、意図したことは伝わっただろうかと思う。
同じ言語を使う者同士でこれなのだ。果たして違う言語を操る者同士、上手くやっていけるのだろうか、とも。
じっと聞き入っていた少年はごそりと起き上がり、少し躊躇う仕草を見せて、リーンの隣にちょこんと腰を下ろす。
「僕……」
囁かれた言葉はかすかなもので、口を噤む少年の頭を軽く撫でてやる。
何度も何度も口を開きかけ、それからふるりと頭を一度だけ振って、リーンを見上げる。
「お兄さん、僕は、どうしたらいいのか、な?」
真っ暗な部屋だ、少年にリーンの表情が見えるわけがない。まっすぐ見つめてくる緑の双眸に、けれど、リーンはにやりと笑う。
「魔法の呪文、おしえてやるよ。あの人に顔合わせたら、ごめんなさいって言えばいい」
「だけど、あの人は……」
途端うつむく頭を、今度は少しだけ強くがしがしと撫で回す。
少年が口にする言語と、魔女が使う言語はまったく別のものだ。
魔女は生活に不自由しない程度に言葉を操れるが、この少年は相手の言葉を知らない。
「心がこもってれば相手に通じるさ。だけどそうだな……じゃあこう言ってやれよ。"Judit dia aly"」
「ゆでぃっと、でぃあ、ありー?」
「そうそう。ごめんなさい、それから、ありがとう」
舌っ足らずで発音が少々おかしいその言葉を、<大切な子>と名付けられた少年は何度も口の中で呟いた。
満足いくまでそうやって、
「ありがとう、僕行ってくる」
立ち上がった少年は、微かに差し込む光を目指して歩き出す。
もう大丈夫だとリーンは笑って見送ると、扉の閉まる音を背に立ち上がり窓辺に立つ。
光を遮る分厚いカーテンに手をかけ、一気に引く。途端入り込む太陽の光が瞳を焼き、反射的に目を閉じる。
眩しさに涙が浮かび、何度も何度も瞬きを繰り返した。
闇が追い払われ、部屋にはさんさんと光が降り注ぐ。
カーテンをすべて引いて開けた窓から入り込む冷たい風と、日差しのぬくもりが気持よかった。
ラズが負傷したと連絡が来たとき、外は昼日中、太陽が頂点にあるころだった。
太陽の光はその身を焼くと聞いていた。けれど、居ても立ってもいられず、彼は外に飛び出したのだ。
ずっと部屋に閉じこもっていたからかだと今ではわかる。日差しはじりじりと肌を焼き、
瞳は刺すように痛かったけれど、読んだ書物にあったようにリーンの体は灰になることなく外に存在できた。
その時にはただラズの事で頭がいっぱいでそこまで考えが至らず、運ばれたという病院についたときラズにこっ酷く怒られたのだった。
「自分のこと考えやがれ!」
と、自身の傷のことなど考えず、今にも殴りかからんばかりに。
「さーて、俺の役目は終わりかね?」
リビングから微かに聞こえる少年泣き声と魔女の笑い声に、つられてつぶやく。
正確なところ、魔女が少年を引き取ったか、その真意まではリーンもラズも知らなかった。
けれど彼女は決して害する為に引き取ったわけではないのは知っていた。
「共同生活、大変だけどがんばれよ」
ぽそりと呟いて、彼はゆっくりとリビングに戻る。
開け放たれた窓からは、相変わらず冷たい風が吹き込み、室内の空気を入れ替えていく。
リーンは入る時とは逆に静かに、部屋の扉を閉めた。