中央棟から離れれば離れるほど夕食時の喧騒から遠のいていく。廊下を抜け踏み入れた共有棟の奥は、
住人たちが食堂に出払っているためか礼拝堂のようにしんとしていてて、足音がかつんかつんと大きく響き渡る。
その中を黙々と歩き続ける小柄な少女は、掠れたプレートの下がる扉の前で足を止めた。
抱えたタオルを落とさぬようにしながら彼女が遠慮がちに扉をノックすると、すぐに中から女性の声が聞こえてきた。
「失礼します」
扉を開け礼をしたはずみに、少女の金髪が肩をさらさらと滑り落ちた。
部屋のなかで、その女性は口元に笑みを湛えて立っていた。五十代前半のその女性は優しそうな深緑の瞳を和ませる。
「シスター・エマ。こちらの司祭様が責任者にお会いしたいと」
「わええかりました。シスター・アリス、ありがとう」
エマと呼ばれた女性は、ちらりとアイルの顔を見てそう言った。
「それでは失礼します」
アリスと呼ばれた少女は、アイルと彼の肩の黒猫を冷たく一瞥し部屋から出て行った。
パタンと小さな音を立て、扉は閉まる。
黒猫はとんと床に降りるとエマにすりより喉を鳴らす。
「久しぶり、と言ったところかな?」
その様に小さくため息をついて、アイルは言った。
「アイルも、ユールもお元気そうで何よりです。また大きくなりました?」
いとおしそうにエマは瞳を細めアイルを抱きしめた。エマの茶色に近い金髪からは、シャンプーの香りがする。
「成長期のガキじゃあるまいし、そんなに伸びてないってば」
エマから離れ、アイルは視線を逸らすとシャツの襟元を触りながら言った。
アイルがエマと最後に会ったのは七年前。当時から変わらず視線は彼女を下に見る。
苦労が多いせいか、記憶よりも幾分か細く頼りなくなった彼女に、時の流れを感じた。
「それよりも。貴女こそ……元気そうで何よりだよ」
照れ隠し笑みを浮かべそう言った。
「どうしてここに? 教会嫌いの貴方が」
「リーゼルの使いだよ。どうしても本人に渡さなきゃならない手紙を預かった。教会長――おっさん……今いる?」
「彼なら今はいないわ。隣街の教会まで出張よ」
困ったわと、頬に手を当ててエマは呟く。
「どうしていつもこうかなー。いつ帰ってくるかわかる?」
「遅くても明後日の夜には……」
「明後日ね、まぁいいや。おっさんが帰ってくるまでここに厄介になっていいか? やれることは何でもするし、
あとできたらユールと一緒だとありがたいんだけど?」
困ったというような表情で、アイルは深い藍色の瞳をシスターに向ける。名前を呼ばれた黒猫ユールも
お願いというように首をかしげ短く鳴く。
「仕方ないわ。とはいえ司祭位の貴方に雑用してもらうわけに行きません。……部屋は男子寮の空き部屋で良いかしら?」
エマは、壁の棚からくすんだ金色の鍵を手にして、そう言った。
「ここが、貴方の部屋です」
そう言って与えられた部屋は角部屋で窓は二つあった。入ってすぐ正面に一つ左側に一つ。
窓は少し曇っているが別に気にはならなかった。部屋は定期的に清掃が行われているようで塵一つ落ちていない。
部屋の両側にベッドと傍らにサイドテーブルがあるが、それ以外の家具は置いていなかった。
「……相部屋?」
「昔はですけどね。今はここの人間に一部屋を与えても足りないと言う事はありませんから」
アイルの疑問にエマは苦笑して答える。部屋を見回すアイルをよそにエマはベッドにシーツをかぶせた。
「窓際の方でよかったわよね?」
「あ、うん。どこでも構わないけどね」
窓際とは反対のベッドに荷物を置いて、アイルは答えた。鞄の中から古いタオルを取り出し床の片隅に放ると、
ユールが飛びつき寝場所を整えるようにごそごそしだす。
「夕食は食べた?」
「さっき町の方で」
それを横目に答えれば、エマは微笑んで頷いた。
「他にほしい家具があれば、倉庫に取りに行ってね」
「わかった。ありがとう」
アイルがそういうと、エマは礼をして部屋を後にした。
「……とりあえず必要なものは無い、か」
相変わらず黒猫は寝場所を整えるのに必死なようだった。
問題無しと判断するとアイルは鞄から一冊の本を取り出す。酒場で読んでいた、赤い表紙の本だ。
荷物を置いていないベッドに腰掛けて、彼はページを捲り始めた。
それから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
気がつけば、アイルはベッドに倒れこむようにして眠っていた。
部屋はすっかり暗くなっており視界は闇に包まれていた。建物内も不気味なほどに静まり返り居心地悪そうにアイルは咳を零す。
横になったまま闇の中、読んでいたはずの本を手探りで探す。明かりをつけるのが面倒だった。
手探りでようやく本を見つけもう一眠りするかとそう考えたときだった。
<アイル!>
頭に直接響いた声に体を跳ね起こす。サイドテーブルのランプに灯りを付ければ、深紅の目を爛々と輝かせたユールが、
警戒するように毛を逆立て扉を見ている。廊下を走る騒がしい足音がアイルの耳にも届いた。
「アイル、手伝って!」
声とともに力強く扉が叩かれる。少し甲高く裏返った声。記憶する限り初めて耳にした――エマの慌てた声だった。
「エマ!? どうしたんですか、いきなり」
「お願い。すぐに、治療室に」
血の気の引いたエマの言葉にアイルは扉を開けると黒猫と共に彼女を追い越し頷き駆け出した。
「……で、いつからこうなった? できるだけ詳しく教えて」
治療室。そう呼ばれる部屋に入ってすぐアイルはその患者の様子に舌打ちする。
そう広くはない部屋にはベッドが置いてあり、その上には幼い少女が横たわっていた。まだ五歳ほどだろうか。
少女の肌は青白く、苦しそうに浅い呼吸を重ねていた。意識が朦朧としているのか視線が定まらず、時折体を折り曲げ激しく咳き込む……
一目で重病人であることがわかった。脈も速く持ち上げた瞼の下で元は空色をしてるであろう瞳は灰色がかっていて、そっと舌打ちする。
その周りには母親らしき若い女性と彼女を落ち着かせようとするアリスがいた。
「一週間前にこの子が熱を出したのでお医者様に診せたんです。その時はただの風邪と言われて、すぐに良くなったんですが……。
今日になって、様子がおかしくなって!」
お願いします。女性の青い瞳は、縋りつくようにじっとアイルを見つめる。
「わかったよありがとう。この子は、すぐによくなる。終われば呼ぶから外で待てって」
アイルは手首に巻かれた銀十字を見せると、彼女を安心させるようにゆっくり言葉を区切り言った。
女性が退出するのを見届けると短く「医者は?」とエマに問い、それに彼女は頭を振り答える。
「教会長と一緒に隣町に」
「エマ、俺が医者じゃないことは知ってるよな?」
「えぇ、もちろん」
「なら、早く本当の医者を呼び戻して。あとお湯とかタオルとか用意しといてよ」
アイルの言葉に、エマは一瞬ためらうそぶりを見せて口を開いた。
「アイル、いいの?」
「だって。俺にしか出来ないんでしょう?」
だから呼んだんでしょう。アイルは微笑んでエマを部屋の出口にそっと押した。
扉が閉まる前、隙間からエマの顔が見えた。彼女はアイルにうなずいて、扉は静かに閉まる。
「さて、アリス……って言ったっけ。エマのこと手伝っ」
「ここに残る!」
まだ全部言い終っていないのにアリスは答えた。顔には信用できないと書かれている。
「うー……構わないけど、今から俺のすることに一切手を出すなよ? 俺はともかくとして、この子まで傷つくのはさすがに嫌だし」
ユールと顔を見合わせ困ったというふうに溜息を吐くと条件を出し、それが了承されたことを確認して、アイルは少女に視線を移す。
アイル以外に対処できる人間がいないからこそ今この場にいるが、本来彼は医術に詳しいわけではない。
けれど、医者ではないアイルにもわかることが一つある。本当の医者が来る頃には、少女は死んでしまうであろうことが。
ただの風邪と同じ症状の、病気を一つアイルは知っていた。
恵のないこの大地に住むものにある日突然降ってくる災厄。自然の恩恵を受けられないためか、発生する謎の奇病。
患ってすぐに風邪に似た症状が出る。具体的な症状は熱や吐気、悪寒や頭痛、腹痛と言ったもの。それらは軽い症状のみで発病しておおよそ三日で熱は引く。
誰もがただの風邪・体調不良と認識しそのまま七日後、再び発熱する。
意識は次第に朦朧としていき、呼吸も浅く荒くなり咳が出始める。瞳の色が薄くなり灰色がかってくるともう手遅れで
あとはただ神に奇跡を祈ることしかできない死の病だった。最初の患者が発生して十年以上経つが未だ治療方法の見つかっていなかった。
表向きは。
アイルは寝台の少女の側にイスを寄せ腰を下ろすと、手首にまいた銀の正十字を彼女の胸にそっと乗せる。
足元で頬をすりつけてくるユールに微笑みかけると両手首に巻かれた革のリストバンドを眼前で軽くぶつけ、そっと左手を少女の額に伸ばした。
右手は投げ出された小さな手にそっと重ねる。無意識か反射か、弱々しく握り返すその手に、ぎりと歯を食いしばった。
アリスが立ち位置をかえたのが音で分かったが、それを無視してアイルは藍色の双眸を閉じ深く息を吐き出す。
なにも難しいことではなかった。ただイメージするだけだ。
肺の中身をからっぽにしてそれから新鮮な空気で満たす。深呼吸を繰り返しながら胸のあたりで円を描き循環する光を思う。
その光は少しずつ大きくなっていき、手のひら大になった段階でアイルの左手を伝い少女の額を入り口に全身をめぐり、
小さな右手からまたアイルへと戻ってくる――そんなイメージを浮かべる。ただそれだけを繰り返した。
何度も。何度も。
幼い少女の呼吸が、深く緩やかなものになるまで。
すべてが終わって、そっと持ち上げた瞼の下。やや瞳孔が拡散しているもののあの灰色は消え綺麗な空色をしていた。
そのことに安堵しながら微かな音をたてて扉を開いた。廊下には予想したとおりエマと共に、女性が心配そうに立っていた。
「入っていいよ」
疲れをなるべく隠して、アイルは微笑んで言った。
「娘は?」
「大丈夫、もう平気だ。やっぱりただの風邪だったみたいだ。主へ祈りを捧げたし、あとはゆっくり養生すればすぐに元気に遊べるようになる。
今は、あの子のそばについていてあげなよ」
その言葉に、女性は嬉しそうに部屋の中へ駆け込んだ。
アイルは扉がしまったことを確認すると、エマに近づき彼女とアリスにだけ聞こえる声で囁いた。
「で、エマ。少し話があるんだけど?」
「何です」
エマはごく当然のようにに聞く。アリスは強張った表情でただじっとアイルをみやる。
「もう大丈夫だと思う、けど一応医者戻ったら診察してあげて。少なくとも容態は安定してるしもう悪化することはないと思う」
そこで区切って、彼は息をつく。黒猫を拾い上げ抱える。
「とりあえず、俺は限界なんで部屋に戻るわ。無いと思うけど万一の時は、叩き起してくれればいい」
「ええ、お疲れさまです。……ごめんなさい」
深々と頭を下げるエマに苦笑して立ち去ろうとしたとき、
「……者?」
ぽつりと暗い目をした少女は口を開いた。
「なにか言った?」
「だから。アンタ……異能者?」
いのうしゃ。
汚らわしいものでもみたような冷たい目と様々な思いが込められた震えた声。
彼女が向ける瞳に宿るのは、畏怖、そして嫌悪だった。
アイルはふっと笑うと、「そうだよ」とただ一言、短く肯定したのだった。