正午の鐘を背後に聞く頃、アイルとアリスの二人は街中にいた。空は相変わらず雲ひとつなく、
抜けるような青と明るい日差しが降り注ぐ。
「で、あとは何買うんだ?」
「布も買ったし、あとは小麦かしら?」
手にしたメモをみて首を傾げるアリスに、アイルはまだ買うのかと両手の荷物を見下ろし苦笑する。
今の彼女ははじめて会った時の修道服ではなく、水色のワンピースを着ていて同じ色のリボンで髪を結い上げている。
彼女が動くたび金髪はゆらゆらと揺れていた。多分、私服を着ているアリスを先に見なければ、彼女が修道女であるとは信じられなかっただろう。
どこにでもいるような普通の少女にしか見えない。もっともこれは、あの教会にいる者全てに言えそうだ。
アイルの知っている聖職者は傲慢で信仰心の欠片もなく人を見下したような態度を取る。
人ではなく、何か別の生き物でも見るような目で彼らはアイルを見るのだ。
「なにぼーっとしてるの? 買い物終われば洗濯もあるのよ! 早く早く」
彼女は振り返り言うと軽やかな足取りで進む。それもそのはず。彼女は荷物を何一つ持っていない。
「早くって言うんなら、少しは荷物持て!」
今まで考えていたことを振り払うかのように頭を振って、アイルは言った。
「そんな荷物、女の子に持たせようって言うの?」
彼女が振り返るとワンピースのすそがふわりと広がる。陽の光を受けた髪はそれ自体が光を放ってるように見えた。
その姿をみてアイルは昔見た<天使>の絵を思い出した。すぐさま頭を振りそんなわけないと呟く。
アリスには翼はないし、第一天使はここに存在しない。
アリスにいいように使われるアイルを見て、街路の両側の店からはクスクスと笑い声が聞こえてくる。
視線を見やれば、店を構える主たちが楽しそうに笑っている。
「笑うなよー」
困ったというような顔をして、アイルは店主達に訴えた。
「無理無理。楽しいんだからー」
雑貨屋の女主人はそう言う。
そして小さくアリスちゃんに敵うわけないわ、と付け足した。
「あの年頃の女の子って無敵なのよ?」
「一生敵わない気がしてきた……」
アイルは、肩をすくめてそう口にした。
「そんなこと無いわよ」
女主人は苦笑しながら、アイルの背中を軽く押した。
「だったらいいんだけどね……。それじゃ」
礼をして、アイルは早足で歩き、少女の隣に並ぶ。
今日の町は昨日と違い活気があった。久しぶりの快晴だからだろう。最近では青空がのぞく日は稀だ。
もっとも明日になればまた空は分厚い雲で覆われるのだろうが。家と家の間に張り巡らされたロープにはシーツやタオル、
ズボンといった洗濯物が風にはためき窓からは毛布が干され太陽の光を受けていた。
街路に落ちるそれら洗濯物の影を踏みつけてアイルは歩いていた。
久しぶりの太陽の光は気温を一気に上げて夏というものを感じさせてくれる。
「大丈夫?」
「いやちょっと疲れただけ。休憩しない?」
道端の陰を指差して、アイルは言った。
「まぁ、いっか。少しくらい」
仕方がない、というように彼女は肩をすくめて道端に歩み寄る。
アイルは息をついて日陰に入り、荷物も路上において背を壁に預けるようにして座り込む。
石の壁はひんやりとして気持ちいい。その隣、荷物を間に挟んでアリスも同じように腰をおろした。
その様子を横目に、アイルは黒いシャツの袖を捲り上げボタンをはずし首元を緩める。
長袖は流石に暑かった。
「そんな服着てるから暑いのよ?」
呆れたようにアリスは言った。
「それはわかってるんだけどな」
さすがに失敗したと続けて、はたはたと手で風を送りながら、苦笑してアイルは言う。
「いくら何でも、体力なさ過ぎない?」
「曇り空の下を旅するのに支障は無いんだけどな。流石に日差しの下をずっと、はきつい」
「そうなんだ? 私は全然平気なんだけどなー」
ひとり涼しそうにする少女に、アイルはまた笑う。
他人の目がないことを確認し小さく来いとつぶやけば、二人の間を涼しい風が吹き抜けていった。
何をしたのか、それに気づいたアリスが複雑そうに見やってくる。
それに気づきながらアイルは路上に目を向ける。気のせいか人々の顔も明るく見えた。
「……あのさ。昨日のことだけど。ごめん」
街の喧騒に消え入りそうな声でアリスは言った。二人以外には聞こえないくらい小さな声は、躊躇いがちに続ける。
「異能者かって聞いたこと。アンタはアンタなのに、そんなの関係ないよね」
ようやっとそう言ってアリスは俯いたまま顔を上げようともせず、アイルはため息をついて前髪をかきあげた。
「別に気にしていないさ」
右手をアリスの頭に伸ばしアイルは答える。伸ばした袖からちらりとリストバンドが目に映る。
「大丈夫、俺はそんなことに気にしてられるほど繊細じゃないし、慣れっこだ。どんだけ今まで言われてきたか」
だから気にするな、そういって乱暴に髪をかき混ぜてやる。
「もうやめてよ!」
アリスはその手から逃れるように離れると、乱れた髪を撫で付ける。それからもう一度、ごめんねと口にした。
それからたっぷり三十分ほどして二人は教会に戻ってきた。
荷物をまとめて厨房に引き渡すとアイルはアリスに教会の裏に案内された。
二人が着いた時にはもう他の修道女達がお喋りを交えて洗濯をしていた。
「アリス、遅いよー」
少女の一人がアリスを見つけてそう叫ぶ。目敏いなぁと苦笑してアイルはその様子を見ていた。
「ごめんごめん。あーと、アイル。洗濯の仕方知ってる?」
「もちろん」
アイルは道具を受け取ってそう言った。
「それじゃ、ノルマはその籠の中身全部ねー」
アリスはそう言って籠の一つを指差した。
彼女自身も同じくらいの量の洗濯物を持って、少女達の輪の中に入って行った。
「まさか、いつもこんなことしてるわけ?」
籠の中身が半分になった頃、アイルは隣で作業をしているアリスに尋ねてみた。
懐かしいといえば懐かしいが今は人の手を借りることなく洗濯ができる時代だ。それなのに、何故、手洗いしなくてはならないのだろうか。
「まぁね。ほら、口動かさないでさっさと手、動かした方がいいわよ?」
「いや、それはわかるんだけどさ」
あー腰痛ぇ、などと呟いてアイルは腕を動かす。洗剤をつけて洗濯板を利用して服をひたすら洗う作業。
井戸のそばにしゃがみこんでやるために、足腰が痛くてたまらない。もちろん、腕も痛いのだが。
アリスや他のシスター達は、涼しい顔で作業を進めている。
「お兄さんってお洗濯に慣れてるんですか?」
「ん、どうして?」
「妙に手馴れてるからじゃない」
名も知らぬ少女の代わりと言わんばかりに、アリスは続ける。
「まぁ、確かに慣れてるしなー。するのは久々だけど、昔はよく母親の手伝いしたしね」
素気なく答えてアイルはたらいの中の水を捨てる。井戸の綺麗な水を苦労してくみ上げ、たらいに注いだ。
ついでに他の子のためにも何度か水を汲み上げてやる。
「教会って水道きてなかったっけ?」
滴る汗をぬぐって問えば、少女たちは顔を見合わせる。何処か怯えたような、言うか言わまいか悩んでいるような、
そんな色が浮かぶことに訝しんでいると、
「ちょっと前に地震があって、それでお水が赤くなって」
「もともと井戸があるから困らないんですけどー気味が悪いし有害だったら困るからなるべく水道は使わないようにって」
躊躇いがちに口々に説明するその言葉に不安の色が滲んでいてアイルは首を傾げる。
言いにくそうなのは、その得体のしれなさに対する不安からだろうか?
「水道管の錆でも出てきたんだろうし、心配しなくっても大丈夫だろ」
慎重に言葉を選んで安心させるように笑う。
もしも悪影響がありそうならば、アイルがここに来た時に触れられているはずだからだ。
それだけの信頼はしている。
それっきり、話題は天気についてや今日の夕食についてなどたわいもないものに移り変わり、
洗濯物を渡したロープに干し上げて、アイルに課せられた仕事は終わったのだった。
闇に閉ざされたその場所は静かでとても居心地が良かった。
闇の中では自分の姿が見えない。視界を奪われてしまえば、違いなんて何もわからなかった。
だから、他と違うことを意識しなくてもいい。忌々しい黒髪は闇の色でもある。暗闇に溶け込むのにはちょうどよかった。
くつくつと彼は喉を鳴らして笑う。
岩壁の隙間から僅かな光が挿し込むが、それでも落ち着ける場所だった。
この小さな世界のどこにも心から安心できる場所は存在しない。
人は手に鎌を、包丁を、斧を剣を持ち彼に向ってくる。
走り回って必死に逃げるが、たかが十の子供が大人数の大人に勝てるわけが無い。
捕まった彼がどんなに抵抗して泣き叫んで命乞いしても――両手両足の自由を奪われた彼を、助けようとする者はいなかった。
悪魔。
誰かがそう言って、喉笛にナイフを突きつける。
切っ先が僅かに皮を切り裂き、つっ……と紅い雫が流れた。両親は彼から離れた場所で、じっとその様子を見つめる。その顔に浮かぶのは――嫌悪。
助けて欲しくって必死に伸ばしたその手を、彼らはただ拒絶した。
その時だろう、彼が全てに絶望したのは。
夕食の時間が終わり埃を洗い流したあと、あてがわれた部屋に戻ったアイルはすることもなく、
いつものように本を読み始める。
黒い本に書かれた文字は普段よく見かけるそれと形は似ているが、意味や文法が少し違う。
教会の儀礼で行う聖句などに使われる発音とほぼ同じらしい文字が綴られていて、
解釈に迷うときも多々あるけれど、概ね意図は読み取れているとアイルは思っている。
興味深そうにユールが鼻を寄せるのを邪魔だと掌で押し返しながら、少しずつ読み進めていく。
書かれているのは異能についてらしい。
複雑な紋様の横に細かく注釈が入り、その意図を解釈する。次に応用らしき文章が並び、また解釈が続く。
実行するには至らないものの、興味をひかれなんとなく解読を進めているのだ。まだ半分も読み進めてはいないものの、
時間はたっぷりあることから、アイルは少しも気にはしていなかった。
そんなときだった。ユールがぴょこんとしっぽと耳を立て、入り口を見やるのは。
コンコン。
「……入るよ」
遠慮がちなノックの音がしてそっと扉が開く。覗いたのは隣室だという青年シェードだった。
「どうかしたか」
「シスター・エマから、お前さんのことを呼んできてくれってさ」
明るい緑の瞳が心配そうにゆらめき、大丈夫かと訊かれる。
「何がかわからんけど大丈夫だ」
答えてアイルは床に足をつく。靴を履き立ち上がり、ユールを呼び肩に乗せる。
「わざわざ呼びに来てくれてありがとうな」
にっと笑いかけてやれば、シェードは安心したようにうなずき、いってこいとアイルを送り出したのだった。