... 紅い水・8 ...
←[BACK] / [TOP] / [NEXT]→

 時告げが夕刻を知らせる鐘の音を鳴り響かせる頃、ようやっと仕事を終えた男は、緩やかな坂道を登り終えて己の家にたどり着いた。
 この春子供たちが巣立った我が家は坂の半ばにあり、一家で住むには手狭だったがなかなかに居心地の良い家だった。
 木材は高く手が出せなかったものの、伝統ある白い石造りで、屋根はかつてのような空を思わせる深い蒼だった。
 帰宅し明かりをともした男は、いつものように台所で蛇口をひねる。
 グラスを満たすのは真っ赤な液体で。
 床に叩きつけられたグラスは粉々に砕け散り、まるで血が飛び散ったかのように男の足下を濡らした。

 * * *

 今日の空は変わらず雲に覆われ憂鬱な天気であった。というよりも、青空を見た記憶が殆ど無かったのだ。
 季節も夏の盛りのはずが、肌寒く感じる日の方が圧倒的に多い。
 ユールは猫の姿のまま、礼拝堂のテラスで丸くなっていた。
 相方はというと、その下で今頃仕事として礼拝に参加しているだろう。
「暇だなあ」
 ぱたんぱたんと黒いしっぽを揺らしても、応える者はいない。暇で暇でユールは欠伸をひとつ零す。
『我らが信仰を持つ限り、主は常に我らのそばに。そして、いついかなるときも、我らを見守って下さるだろう』
 風に乗って届くのは礼拝堂からの声だった。
 ラザイルという名前の男司祭の説教のようで、聖書の一節を朗読しているようだった。 読み上げるその声は朗々として、良く透る。
『主に捧げる信仰は、邪悪なるものから我らを守ってくださる。 左手に教典を、右手に誓いを、唇には祈りを。我らに主の祝福があらんことを――』
 続く言葉に黒耳をひくりと動かすと、ふわぁと気が抜けるような欠伸をまたひとつ零したのだった。

 静謐な空気に満たされた礼拝堂。そこに響くのは祈りの言葉と人々の息遣い。
 太陽神を模したステンドグラスに向って信者は祈りを捧げる。
 アリスの傍らでアイルもラザイル司祭の説教に耳を傾けながら、祈りを捧げる仕草を見せる。
 それはとても意外だ。
 確かに司祭位を持つアイルは祈りの動作は流れるように美しく完璧で、どこからどう見ても立派な神官にしか見えない。 必要であれば笑みを貼りつけた顔で平気で神への忠誠を口にするだろう。
 アリスとアイルの二人は、礼拝堂の最後列に座している。周囲の信者は俯き、各々祈りを捧げ、背後の二人に意識は向けていない。
「主は我らの行いを常に見ておられます。善いも悪いも全て……。それらは全て魂の記憶として刻まれ、その御手により天秤の左皿にかけられます。 善き行いを積み重ねれば天秤は沈み、我らは再びこの世界に放たれ新たな人生を歩むのです。
 だからこそ、我らは主に恥じぬ行いをし、また、胸を張って生きなければなりません。
 右手に聖書を、左手には天秤を、口には祈りを。全ては我らが神の名の下に――」
 決まりきった祝詞のあと、司教は聖書を閉じると印を切る。
 それまでのしんとした空気はとたんにゆるみ、ざわざわとした活気がよみがえる。
 子供たちは四半刻に及ぶ説教に飽き飽きとしたのか、あっと言う間に外へと飛び出していく。
 大人たちもやがてそれに続いていく。
 アイルがアリスを連れ、聖堂の外に出用として呼ばれたのは、そんな時だった。
「アリス、先に行け」
「……わかった、お疲れ様」
 金髪の少女アリスは、声をの主を確認すると一つ頷き外へ出ていく。
「で、どちらに向かえば?」
「執務室へ」
 司祭ラザイルはそれだけを告げて、アイルは仕方ないとばかりに黒髪をかいて溜息を吐いた。

 ラザイルは、アイルと同じく司祭の位を戴いている。
 リザービリア教会では、よほどの辺境や人数の少ない田舎では司祭の下に位置する侍祭や助祭が置かれるが、 そういった特例を除き基本は各町の教会に司祭を一人配置することになっている。
 いくつかの教会をまとめ統括する者は司教とされ、その上に各司教を統括する大司教がおり、枢機卿、教皇へと続いて行く。
 紛争の最中、三十路差し掛かったあたりで任命されたラザイルそれから二十余年あまり司祭の位を戴きずっとティアで教会の運営を執り行ってきた。
 辺境に位置する教会に司祭が所属するものには珍しく、またラザイルの名は神都でも名が知れており評判も良かった。 数年内に西部教会の司教の位を、或いは神都の教会に着任して欲しいとの声すらある。
 かつての紛争の際にティアの地域周辺を治め、町自体も守りきり、何よりも信仰心厚く教徒たちに慕われていることも理由の一つだろう。
 対するアイル=クラウドは幹部候補生ではあるもののまだまだ年若く未熟なため、 各地の教会の運営や司祭としての役割を実際に見て学びさらなる階梯へと進むための過程としてティアに派遣された、とされていた。
 ラザイルの評判が良いこともあり、神都の幹部がやってきてもそれは違和感なく受け入れらたようで、 アイルがやってきておおよそ二週間がたつがすっかりと教会の中に溶け込んでいた。

 あの日以来病の発生もなく、ごくごくふつうの日常を送ることができたのだった。

 * * *

 それは、まるで血のように紅い水だった。
 執務室の薄暗い灯りですら、赤々と染め上げられた液体が、ブリキのバケツいっぱいに満たさている。
 井戸から組み上げたと言われたその液体は、酷く甘ったるい匂いを放つ。
 ティアの町の北半分の水はその液体に変わっていた。数日前まで透明で豊かな水を湛えていた井戸も、蛇口をひねれば冷たい水を供給する水道もすべて、だ。
 紅い水は半刻ほどして異変のあとに水源から涸れたかのように水の一滴もでてこなくなった。

「で、これが今朝までに報告のあった異変の一覧ってわけ、か」
 一通り目を通した紙束を執務机の上に投げ出して、アイルは不機嫌そうにそう口にした。 聖堂内ではきっちりとしていた神官服は既に襟元があけられ着崩されている。
 乱雑に切られた髪は身に纏う服と同じ漆黒で、藍色の瞳は言葉と同じく不機嫌さを隠していない。
 夜の二刻から明け方までにかけて教会にあがった報告は十六件。すべてが赤い水に関する出来事だった。
「北地区のエインズが現状では一番はじまりのようだな。それから西地区のサテラが最後と」
「……報告書みてたらどこも北か西に固まってるんだな。せっかくお勤めが終わったのにこれかよ……」
 ついてないと溜息交じりの声に、
「それは残念だったな。もうわかってると思うが、おまえに調査を依頼したいんだが」
 苦笑交じりに、ティアの町の教会を取り仕切る司祭ラザイルはそう言葉を投げた。
「この話聞かされた時点でそうだと思ってたわ」
 不機嫌さを消してアイルは苦笑すると、パチリと左手を鳴らした。
「とりあえず、ここの教会もだろ?」
 すうっとどこからか現れた黒猫をすくい上げると、期待はするなと左手を振り、執務室を後にしたのだった。


←[BACK] / [TOP] / [NEXT]→

掲載日:2012/02/29
Copyright (c) Itsuki Kuya All rights reserved.