... イスターシャ ...
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「この用紙は表紙になります。読み書きは出来ますよね?
 こちらの用紙には貴方の本当の名前や生まれた国のこと、家族のこと、何でもいいんです。
 貴方が生まれ育ち親しんだ世界の言葉で、文字で、貴方自身のことを書き記して下さい」

 綺麗に磨かれた淡青の盆の上に置かれているのは、透明の硝子ペンとインク瓶、薄桃色の用紙の束だった。
 それを壊れやすいものでも扱うかのようにそうっと机の上に置くと、係員の女性はゆっくりと丁寧に修司が聞き取れるように説明を続ける。

「こちらの部屋は用紙を埋め終わるまで……満足するまで何日でもご自由にご利用いただけます。
 こちらのベルを鳴らしていただければ、担当の者が参りますのでご用をお申し付け下さいませ」
 それでは。
 そう言って一礼した女性は退室していく。後に残ったのは修司ただひとりだった。

「……疲れた」
 ブーツの紐を緩め脱ぎ捨てると、整えられたベッドの上にごろりと横になる。
 遠い記憶とは違う太陽のにおいにもう一度溜息をついた。
 室内は家族旅行で泊まったホテルのように清掃が行き届いていて、 一人用のベッドの他には小さな書き物机と窓際にソファーとテーブルのセットが置かれている。
 先に預けていた荷物は、机の上にちょこんと置かれていた。

「疲れた」

 この世界に落ちてきても、ずっと希望を持っていた。
 修司のことを知る人たちが彼らのために何らかの情報を持ち帰って、その度に喜んで。
 そして落胆した。
 何度も何度も歓喜と落胆を繰り返し、情報の提供をやめようかと申し出る者たちだっていたけれど、
修司は続けてくれと懇願したのだ。
 いつかは、いつかはきっと家に帰れると思っていた。帰らなければならない理由があるのだ。
(でもホントは無理だって思ってたよ)
 疲れたと、もう一度口にして体を起こす。
 家を出る前に養い親たちが整えてくれた黒髪はすっかりぐしゃぐしゃになっていて、修司はあーあーと残念そうに声を漏らしながら手櫛を通す。
 もともと癖のつきにくい髪はそれだけで元に戻り、切るのをさぼったせいで目に入りそうになった前髪をひとつつまみ上げた。
 部屋の明かりに照らされたその髪は癖のない真っ直ぐな毛質で、町ではまず見かけない真っ黒な色をしていた。
 その瞳は黒に間違われるが、よくよく見れば焦げ茶色をしているのがわかる。
 肌の色も日焼けはしているものの黄色がかった色で、故郷の日本ではありふれた色をしていたのだ。
『これでもう、おしまい』
 言い聞かすように修司は口にして裸足のまま床に立つ。書き物机までの一歩一歩が、ひどく重かった。

 窓から差し込む光が温かく、微かに吹きこむ風が机の上の紙を揺らしていた。
 薄桃色の用紙の一番上は表紙として名前や現住所などを書く欄が設けられていた。
 一通り目を通すと修司は手早く記していく。次のページは自由帳のように何も書かれていない。
 まっさらな紙を睨みつけると、黒いインクで満たされた瓶にペン先を浸し続きを記す。

"山本修司 やまもとしゅうじ
1990年5月10日生まれ、8さいの時におちてきた。
家ぞくはお父さんとお母さん、おにいちゃんといもうと。
住んでいたのは――、小学校の名前は――。"

 思い浮かぶことを拙い文字で必死に書き連ねていった。
 家族の名前、住んでいた場所のこと、担任の先生やクラスの友達の名前、遠足や旅行で行った場所のこと。
 綴る文字は鞄に大切にしまっているノートよりもやや角張っているが、
それ以上増えることのない語彙のせいで、文面は漢字よりもひらがなの方が格段に多かった。
 遠い遠い記憶を辿り、もはや顔も声もぼんやりとしか思い出せない、大切だったはずの人たちのことを思い浮かべ必死に紙に書き出した。

『やまもと、しゅうじ』
 己の名を日本語だと意識して言葉にして、誤魔化せない違和感に眉を寄せる。
 かつて日常的に口にしたはずの言葉は、今や遠い国の言葉となっていた。
 日常で修司が今耳にし口にするのも日本語ではなく<リスタリエ>と呼ばれる言語だった。
 その異国の言葉にあまりにも馴染みすぎた結果、修司は思考の大半を日本語で行うことができなくなっていた。
 幼かった修司の日本語の語彙は少なすぎて、異国語との結びつけができないのだ。
『それでもぼくは……』
 それだけをつぶやくと、修司はまた続きを書き始める。

"レスカやヒューたちに助けてもらって、ユリスの家の子になったよ。
それでも、ずっとずっとかえりたかった。みんなかえり方をさがしてくれたけど、みつからなかったんだ。
たかしにいちゃんにあいたい。
ひーちゃんにあいたい。
お父さんにもお母さんにもあいたいよ。"

 ここに来てからどうやって過ごしたのかを。
 養い親のお陰で、言葉に苦労はしたものの、それ以外では何一つ不自由しなかったことを。
 そして、どうして故郷へ、日本へ戻ることを諦めたのかを。

 修司は、自分が知りうる限りの言葉を並べ、この世界に落ちてから今まで、約十二年のことを書き記した。

 * * *

 それはこの世界において決して珍しいわけではないという。
 十数年に一人いるかいないか。
 その程度の確率で、彼のことを知った者は皆、不幸な事故だったのだと表現する。

 修司は日本のごく普通の家庭に生まれた、優しい両親に利発な兄とかわいらしい妹に囲まれた普通の少年だった。
 彼の運命が変わったのは、八歳の誕生日を迎えて四日経った日のことだ。

「またあとで、一時にパンダ公園で!」

 学校の帰り道、そう約束して修司は友達と別れた。
 五月も半ば。梅雨まではまだまだ遠く穏やかな日差しと風が心地よい、そんな季節だった。
 時間を守るために家に向かい駆けている時、ぐらりと地面が揺れた。
(地震かな?)
 そう思って足を止め周囲を警戒しながらその場にしゃがみ込む。
 ゆらーりゆーらり。
 揺れは緩やかで、後に思い返せば目眩にも似ていた。

 ゆーらりゆらり、ゆらーり……。

(…………あれ)
 やけに長く続くその揺れに何かが変だと、そう思ったときには既に手遅れだったのだろう。

 ――ぐにゃり。

 周囲の建物が、道路が、景色が歪んで見えた。
 立ち上がろうとしてできなかった。
 リンという鈴の音が鳴り響く。続いて甲高い硝子が割れるような音が頭に響き渡り、そこで修司の意識は途切れたのだ。


 次に気がついたときには、周囲を木々に囲まれた見知らぬ場所にひとり横たわっていた。
 時候からして若葉の繁るはずの木々は紅葉し、空は低く、今にも泣き出しそうな雲が広がっていた。
 焦げ付いた木からくすぶる煙に、遠くに聞こえる獣の鳴き声に、どこか甘い空気に幼い修司は怯えて泣いた。
「ここ、どこ」
 そう言って泣きじゃくる。
 修司の住む町にこんな場所があるなんて知らなかった。
 こんなにも煙がくすぶっているのに誰も来ないのが信じられなかった。
 だって、誰かが消防署に連絡するに決まってるのだ。サイレンを、赤い車が鳴らしてやって来ないはずがない。

 どれほど修司はそうしていたのだろうか。泣き疲れた修司はランドセルを抱えたままその場に座り込んでいた。
 移動するべきか、それとも留まるべきか躊躇ううちにずいぶんと日も傾いた。
 変わらず獣らしき遠吠えは耳に届く。
 心細さに涙がこぼれそうになった時だ、遠くから数名の話し声が聞こえた。
 それは次第に大きくなり、こちらに向かって近づいて来るようだった。
「…………」
 嗚咽を飲み込んでぐいと手の甲で目元を拭い立ち上がると、転がるランドセルを拾い上げのろのろと歩きはじめた。

 周囲は修司が倒れていた場所を中心に木々がなぎ倒され、広々とした空間ができていた。
 倒れた幹は焦げ付いていやな臭いが立ちこめている。
 木っ端や幹に躓かないよう気をつけながら、修司はゆっくりと歩き始めた。

 彼らとの距離は三十メートルほどだった。
「すみませーん!」
 掠れた声で精一杯の叫びをあげれば、その一団は彼に気がついたかのように手を振った。遠目に見て男女あわせて四人の集団。
「ごめんなさい、ここがどこかわかりますか?」
 ぱっと顔を輝かせ修司はそう叫ぶと走りはじめ、そしてすぐにその歩みを止めた。
 少し困惑したような一団とその先頭に立った青年。
 柔らかそうな、短く切られた栗毛。まだ若い彼は二十代になるかならないかといった頃だ。 肌は日焼けしているものの色素の薄い色だった。彼は長身を屈め、意志の強そうな濃青の双眸を真っ直ぐ修司に向ける。
「ヒュアス ラティア セッタ シェイアニーネ??」
 ゆっくりと発音し区切られる言葉に、修司は瞠目する。
「もう一度言って、よ」
 消え入りそうな声で言えば、青年は同じ言葉を繰り返し最後にただ一言、
「……フーエイニャ」
 と付け加えると、困ったように眉を下げてグローブをはめた手で修司の頭を優しく撫でた。
 それから、「ヒュー」と後ろの同行者たちに向けて発し、<イスターシャ>だとか、修司には聞き取れない言葉を交わしていく。
 ほんの数分で何かを相談し終えたのか、青年は立ち上がると修司の手を取り立ち上がらせ、
「ウィディア ラティア シェダン オスイェ?」
 ゆっくりとし歩き始めた。
 青年の同行者もすでに歩き始めていて、修司も手を引かれぬままに従ったのだった。

 連れて行かれたのは外国のような町、だった。
 道路には見慣れたアスファルトではなく、今は雨に打たれ濡れているけれどアニメでみたような石畳が敷かれ。
 コンクリートではなく、家々は白や灰、明るい茶色の石――あるいは煉瓦で作られているようだった。
 整然とした町並み、雨の最中だというに修司や青年たちを出迎えるように、かなりの人たちが集まっていた。

 青年たちもそうだったが、町の人々は日本では考えられないような髪と瞳の色をしていた。
 金髪や茶髪、黒髪だけでなく、ゲームやアニメにあるような青や赤、緑がかった色まであるくらいに。
 飛び交う異国の言葉に、どこか外国なのだろうかと思った修司も、なんとなくなにかが違うのだと感じていた。
 同行者だった赤茶の髪の男が集まった人々に何かを説明していて、栗毛の青年に手を引かれたまま、
修司は一軒の――おそらくなにかの店に連れていかれた。

 意思疎通ができるようになって初めて知ったのだが。
 彼らは異世界からの迷い人を保護している教会や魔法使い組合の誰かが来るまで、拠点として使用していた宿屋でに預けようとしていたらしい。
 そこの主人ならば、決して子供に害為すことはないだろうと、信用してのことだった。

 それは、この世界において決して珍しいわけではないという。
 頻度として、十数年に一人。
 その程度の割合で異なる世界からこの、彼らが<シルエスト・アーレイア>と呼ぶ大地へと迷い込む者がいる。
 落ちる――とこの地の人々が表現するが、それは修司が最初の一人だったわけではないのだ。

 シルエスト・アーレイアの人々は、髪と瞳の色こそカラフルだったが、修司とよく似た姿をしていた。
 身長は記憶する大人たちより高いし、肌も黄色がかった色ではなく全体的に白さを帯びている。
 例えるならば、テレビゲームの舞台になるような世界だった。
 日本語でも英語でもない聞いたことのない言葉が飛び交い、露出が多かったりあるいは色使いが派手だったり、
日本ではまずみかけない装飾の衣装。口にしたことのない香辛料や果物で溢れている。
 ガラリとかわった生活に混乱し、戸惑うことのほうが圧倒的に多かったけれど、修司は日を追うごとにそれらを受け入れていった。
 生きるために本能的に行なっていたことなのだろう。
 たとえ言葉も習慣も違っても、十二年も住めばなれるというものだ。
 最初の頃は忘れないように繰り返していた国語の教科書の朗読も、最近は行うこともなくなった。
(慣れってすごいな)
 最初は帰りたくて帰りたくて仕方なかったのに、だ。

"ともだちにだってあいたいし、先生にだってあいたい。
だけどかえるほうほうがわからないんだ。
もう12年もまったけど、かえれないんだとおもう。
だからぼくは、このせかいでいきていくことにします。
ユリスがうちの子になればいい! ってよくいっていたから、そうなるとおもいます。
ずっとかえることばかりかんがえていたけど、それも今日でおしまい。
山本修司って名前をわすれるわけじゃないけど。"

 そこまで書き上げると、インクをこぼさぬように気を付けてペンを置いた。
 時計をみればあれから二刻もたっていない。紙束はすでに文字で埋め尽くされている。
「行くか」
 霞んだ目元を手の甲で擦ると、わざとらしく口にして紙束と荷物を手にした。

 受付に姿を現した修司を見て、女性は悲しそうに笑ってそれを受け取った。
「確かにお預かり致しました。表紙とその次のページは今後この施設にて大切に保管し展示します。
 貴方の死後、指定された遺品もこちらに委託されることでしょう。
 いつか、貴方の世界からやってきた旅人に、引き取ってもらえるまで」

   大切に大切に展示されるという紙以外は淡桃の布でくるまれ、鍵付きの保管箱に入れられた。
 施錠を確認すると女性は箱の上で指先を踊らせ、不思議な文字を記していった。
 それは対象の劣化を防止する魔法で、かけられた時の姿を保ち続けるのだと、修司は説明された。

「それでは、貴方のこの世界での新たなお名前をお聞きしましょう」
 女性の言葉に修司は舌で唇を湿らせた。伏せがちにしていた焦茶の双眸を女性へと向けると、
「ヤマモトシュウジ、僕はこの名前を捨てる。今日から僕は、シュウ・アニエス=イスターシャ。異世界からの、ニホンからの迷い人だ」
「確かに」
 女性は修司――シュウに向けて笑って言うと、そっと手のひらを伸ばし背後を示す。
「シュウ・アニエス=イスターシャ様。
 どうかこの世界での貴方の生が、太陽のように光に満ち、歩む道程が廻る星月と数多の精霊たちにより祝福されたものとなりますように」
 祈りの言葉にありがとうと短く口にすると、シュウはその先へ歩んだ。

 * * *

     逆光の中、十二年間修司を養ってくれた養父は悲しそうに笑い、彼を待っていた。
 その大きな手のひらを伸ばし、せっかく整えた黒髪をがしがしとかき回す。
「終わったのか?」
「ちょっとユリス! くしゃくしゃになるじゃないか。うん……全部書いてきたよ」
 手のひらから逃げると髪をなでつけて、すっきりしたよと付け加える。 出迎えてくれた養父――ユリスは明るい緑の瞳を和ませると、そうかと笑った。
「ここに来るのも十二年ぶり、か…」
 それからどこか遠くをみるような、そんな眼差しで施設内を見回したのだった。

「僕の記録はウタコさんの隣に飾ってもらえるんだってさ」
 ユリスは施設のことを知っていたから、シュウはそれだけを説明した。
 シュウの書いた紙束のうち、表書きにあたる部分が施設内の一室に貼り出される。
 そこにはかつて日本から迷い込んだ「吉田歌子」という女性の記録も展示されていた。
「将来的に僕の遺品とか残したいものも保管してくれるんだって。両隣に並んでたら、確かに見つけやすいと思うけど」
 展示室がある部屋の方角を見やると、シュウはため息をついた。

 かつてシュウもその部屋で歌子の記録を目にした。
 自分の置かれた状況やこの場所がどういう所なのか。
 それらがわかりやすい日本語で説明されており、シュウはそれにより自身の置かれた現状を知ったのだ。
 そして残された歌子の遺品を一旦預った。
 その中でも彼女の残したノートは、シュウがこの世界の言葉を覚えるのに大いに役立ったのだ。
 シュウの記録もまた、いつかの来訪者の役に立つのだろうか。

「それじゃ帰ろうか。宿、放っておいたらおばさまに怒られる」
 くすくすと笑って、シュウは養い親の手を取り、先導するように歩き始め施設の外にでる。
 一度だけ振り返った施設は、かつて訪れた時と同じように赤茶色の屋根が陽射しに照らされていた。

 * * *

 ストラル大陸北西部、沿岸にある町の名をエステラと言う。
 エステラは他の大陸を結ぶ交易町であり、同時に大陸の内外へ出入りする冒険者で賑わう、いわゆる「冒険者の町」の一つだった。

 冒険者は己の剣や魔法などの能力を生かし、自由を愛し自由のために動く者たちだ。
 時に依頼され魔物と呼ばれる害獣を駆除し、或いは暇つぶしに町人の頼みごとを聞いてやったりする、そんな変わり者たちの集い。
 身寄りのないシュウを引き取り、親の代わりを務めたユリス・アニエスの経営する食堂兼宿も、
そのほとんどは一般人ではなく彼ら冒険者を対象とする。
 他所から海路でやってきた彼らがその身を休め、別の地へ渡る一時の休息を提供するのだ。
 ユリスは、腰を悪くした父に代わり店を引き継いだのだという。

 シュウのように異なる世界から落ちてきた者は「イスターシャ」と呼ばれ手厚く保護される。
 衣食住以外にも言葉の習得や望めば仕事の斡旋も、国や教会あるいは魔法使い組合と呼ばれる組織によって行われ、
イスターシャの身元引受人となる人物には、彼らが不自由しないように生活保障金が支払われる。
 そうまでする理由はただひとつ、イスターシャの持つ知識や技術を提供してもらうためだった。
 最初にその点を説明されたため、シュウはユリスの希望もあって彼の元で暮らすことを了承した。
 今年で四十五になるというユリスは、金髪に明るい緑の瞳の男であり年齢よりも若く見える。
 シュウと出会ったのが三十三の頃だったが、記憶に残る彼自身の父親に比べれば腹も出ていないし動きもきびきびとしていた。

 星の祝福亭と剥げかけた文字が刻まれた、宿と食堂を示す看板の下をくぐり抜け、同じく古びた扉を押し明けた。
 カランカランと鳴るベルの音が店内に響く。
「帰りました」
 叫べば奥の厨房からおかえりと言葉がかえってくる。夕食時よりわずかに早いが、屋内はおいしそうなシチューの香りに包まれていた。

  「戻ったよ、店あけて悪かったな」

 遅れて店内に入り込んだユリスは、嬉しそうに緑の瞳を細める。
(おばさまのシチュー大好きなんだよなぁ)
 子供のように喜びを隠さない養い親に、シュウは苦笑しながら歩みを進めた。

 食堂にあたる店内にはカウンター席が四つ、四人席が二つ、二人掛けの席が四つ用意されている。
 隅には椅子が余分に置いてあり、足りなければ各自がそれを勝手に利用することになっている。
 店内には混雑を避けたのか一般人らしき男が二人カウンター席でエールをひっかけていた。
 残りの席は空席だったが、そろそろ埋まり始めるだろうと予想できる。
「じゃ、僕用意してくるよ」
 上着のボタンを緩めながらユリスに伝えると、さっさと一階の奥にある自室へ戻る。
 十二年前に宛てがわれた部屋は、いつもユリスの母親によって綺麗に掃除されていた。
 部屋自体は小さなものだったが、シュウには十分過ぎる広さだった。
 室内の半分をベッドが占めていて、窓際に小さな机と椅子、壁際にクローゼットと小さな本棚が設置されている。
 クローゼットの中には、この世界へ落ちてきた時に身につけていた衣服やランドセルが、本棚には教科書の類や歌子のノートがしまわれている。
 それを横目にシュウは丁寧に整えられたベッドの上に無造作に上着を放り出し、壁に掛けたエプロンを手に、鏡の前で手早く身につける。

     鏡に写るのは太り過ぎず痩せすぎず、けれど筋肉はあまりなさそうな、そんな体型の若者だ。
 肌は周囲の者と比べればやや黄色っぽく、不健康ではないほどにやけている。
 ややたれめがちな黒瞳に、同じ漆黒の髪。手は水仕事を行うため少し荒れ気味で。
 家で皿洗いを手伝ったりした時と同じような格好をした、成長したシュウが写っていた。
「むかしはこうやって手伝ってたんだよな」
 祖父に作ってもらった木製の台に乗って、一生懸命皿洗いをしたことを思い出し、シュウはくすりと笑いをこぼした。
 鏡を見ながら少し伸びてきた黒髪を後ろでひとつにまとめると上からバンダナを巻きつける。
「十二年か……」
 笑みを消すと長かったと、小さくつぶやいた。

   この場所に来たときはまだ八歳の頃だった。
 あの時より身長も随分伸びたし声だって変わっている。元の世界へ戻ったとしても、シュウが修司だとすぐに気づくものはいないだろう。
 日本とシルエスト・アーレイアが同じ時間の流れかまではシュウは知らない。基準にできるものがなかったのだ。
 とっくの昔にシュウの両親は彼を死んだものとして扱っているに違いなかった。
(だから諦めたんだよな、戻るのを)
 最初の頃は名を問われる度に『山本修司』だと名乗っていたが、この数年はシュウと呼ばれても気にならなくなっていた。
 山本修司という日本人ではなく、シュウという異世界からの迷い人であることを、シュウ自身が受け入れはじめていたのだ。

   シュウが店に戻る頃には、ユリスはすでに厨房に入っていた。
 店内にも客が姿を見せはじめる頃合いで、四人席と二人席がひとつずつ、それからカウンターにいくつか空きが見えるだけ。
 厨房とカウンターとを行き来していたユリスの母カナンは、シュウを認めると手招きする。
「今いきます」
「これ、窓際の席のお客さん!」

 駆け寄って渡された銀盆の上にはサラダや肉の盛り合わせ、揚げじゃがとナシェという色合いがビールに似た酒がどっさり乗っていた。
「お待たせしましたっと、ダスクさんたちですか」
 湯気を立てている料理の香りに空腹を覚えながら、重い盆を落とさないよう気をつけながら早足で席に向かう。
 その席に座っていたのは顔見知りの五人の冒険者だった。
 テーブルには長剣が立て掛けられていて、それを扱う一行のリーダーであるダスクは、礼を口にしてシュウからグラスを受け取った。
「ええっと……お祝い酒、ですか?」
 問いかければダスクはにやりと日に焼けた顔を歪める。ダスクは元は金色だという髪を黒く染め上げている。
 その右の頬を縦に走る傷跡や、逞しく太い腕、目つきは常に剣呑で幼い頃は苦手としていた長い付き合いの冒険者だった。
「ああそうさ。南の遺跡に潜ったら、ちょいといいものが見つかってよ!」
「ホントに偶然なんだけどねぇ。すっかり荒らされた遺跡だと思ってたのにたまたーま隠し扉見つけてさぁ」
 乗り込んだら誰も入り込んだ形跡がなかったんだーと、金茶色の髪の男が笑いながらグラスを持ち上げ乾杯の音頭をとる。
「トーエさんあまり飲み過ぎないでね!」
 声をかければトーエと呼ばれた男は大丈夫だよーとのんびりした口調で、グラスの中身を一気に呷る。
 ダスクと違いトーエは一団の中で一番年若い。ダスクの率いる冒険者チームに入ったのもここ数年のことだ。
 三十代半ばのダスクからすれば、一回りほど違うトーエは、愛嬌のある顔つきをしてる。
 下がり気味の眉にくるりと動く黒目、少しのんびりとした口調によくダスクは怒っていたのだった。
「またあとでダスクさんに怒られそうだなぁ……で、何が手に入ったんですか?」
「ああ、それがだな」
 ダスクの唇が弧を描く。
「魔術大全ってぇ本の写本なんだとさ。稀書らしくってな、魔法使い組合が高額で買ってくれたんよ。」
 左手は人差し指だけをたて、右手は握り拳を作り小指だけをたててシュウに見せつけるその意味は、<百>と<十>だ。
「っと、それじゃおめでとうございます、本当に!」
「ああ、ありがとうなシュウ」
 ひらひらと手を振って、視界の隅に注文したいと意思表示しているテーブルに駆け寄っていく。
 カランカランと扉のベルがなり新たな客の来店を告げた。同時に遠くで鐘が鳴り夜の訪れを告げた。

   * * *

   その日、食堂の忙しさが一段落したのは日付が変わろうかという頃だった。
 ユリスは厨房で朝の仕込みを済ませると食器や器具の洗浄作業を行なっている。カチャカチャと陶器の皿のぶつかる音が、聞こえてきていた。
 シュウはカウンターに突っ伏して休憩していた。好きで手伝ってはいるものの、疲れるものは疲れるのだ。
「今日もありがとうね。シュウがいるとホントに助かるわ」
「そう言ってもらえるなら幸せです」
 カナンはユリスと同じ明るい緑色の瞳を細めると、もう一度ありがとうと言ってシュウの前に温めたミルクのカップを差し出した。
 動きまわってくたくただったシュウは、気にしないでくれと伝えるとカップを手に取り口をつける。
 砂糖かなにかが入っているのか、甘く温かいミルクが腹の中に落ちてじわりと暖かくなるのを感じる。
「僕のこと、面倒みてくれてるから少しでも助けたいから」
 それだけ口にすると、またカップに口をつける。
「気にしないでいいのよ。ホントはお手伝いなんてしてもらわなくってもいいんだけど、二人じゃ手が回らないから助かってるわ」
 後ろでくくっていた紐をほどけば、胸ほどの長さのある金髪を手櫛ですきながら、カナンは言う。
 シュウが来るまで、ユリスと二人で店を切り盛りしていた彼女は、どこまでもたくましい。
「それじゃ僕はそろそろ」
「ああそうだ、シュウ」
「何ですか?」
 立ち上がり自室に引き上げようとしたシュウを引き止め、
「ダスクが会計の時言ってたんだけどね、レスカたちが帰ってきたんだって」
 カナンはにこりと笑って言った。
「本当ですか!」
 ぱっと顔を輝かるシュウに、彼女は笑って本当だと伝える。
「それじゃお休みなさい!」
「ああ、お休み。よい夢を」
 シュウは浮かれながら、急いで自室に向かう。
 レスカが帰ってきたのだ!
 兄のように慕う彼らに会えることに、シュウは嬉しくて仕方がなかった。
 


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掲載日:2019/04/29 初出:2011/11/10
小説家になろう、掲載分より
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