... 冒険者とその先へ ...
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 しとしとと振り続ける雨は、一向に止む気配がなかった。

 夜の食堂としての手伝いしかしていないシュウは、自室でごろりとベッドに寝転がりながら歌子のノートを開いていた。
 僅かに擦り切れ変色した紙は、劣化を防止するという魔法のおかげで受け取って十二年経った今でも当時のままの姿を保っていた。
 表紙に書かれた<吉田歌子>という名前は書き手の名前だ。綺麗に整った細い字で様々な知識が記された、シュウにとって大切なノートだった。

『これをいつか目にする人へ。信じられないし信じたくないかもしれないけれど、ここは日本じゃない国で、言葉も文化も違う、何もかも違う世界です』

 口に出して読み上げるのは故郷の言葉だった。
 ノートの最初の数ページを使って書かれた文章は、漢字よりもひらがなが多い。最後のページにはアルファベットで何かが綴られてた。
それは誰かに読ませるために意図したものか、ひらがなの多い文章はシュウでも易々と読むことができた。

 要約すれば、吉田歌子なる人物は過去日本で生まれそしてシルエスト・アーレイアにやって来た。
 彼女やシュウのようにこの世界に落ちてくる者が珍しいわけではなく、彼らの世界以外にも様々な迷い人が存在すること。そして一様にイスターシャと呼ばれることがかかれていた。

 なによりも助かったのは、この世界の言語と日本語の対比表が日常よく使うものに限ってだが一部存在することだった。
 例えば『私』は『ウィ』、『あなた』は『ヒュー』と発音すること。
 他にも『ありがとう』『ごめんなさい』といった言葉が記されていたのだ。
 ノートを落とさないよう気をつけて仰向けになり、うんと伸びをする。
 時々、歌子や自分が持ち込んだ教科書を見て、戻れない日常を懐かしむことがあった。板書をさぼったノートを見るたびに、もっとしっかりと書き込んでいればと思うこともある。
 学ぶ機会を失った文字はもう二度と読むことが出来ない。

「入っていいかな」

 そんな時だった、良く知った声がノックと共に聞こえたのは。
 慌てて跳ね起き、「どうぞ!」と叫ぶと同時に扉が開く。だらだらとしていたのがバレないようにと立ち上がれば、栗毛の青年が入ってくる。
 青年はシュウよりわずかに高い身長で、鍛えられたしなやかな体躯に細かな傷の刻まれた革の胸甲を身につけ、同じく傷はあるものの丁寧に手入れされた鞘の長剣を腰に下げている――冒険者だった。
「おかえり、はやかったねレスカ」
 変わらぬ優しそうな青目の青年に呼びかける。
 レスカと呼ばれた青年は手にした荷物を床に放るとシュウの頭に手を伸ばすと、柔らかい黒髪をぐしゃりとかき混ぜた。
「ただいま。まぁなんていったって可愛い弟分のためだし」
 子供扱いに少しだけ膨れて見せると、もう一度お帰りと口にしてシュウは右手で印を切った。

 冒険者と呼ばれる者たちがいた。

 彼らは剣や弓などの武器や魔法の扱いを得意とし己が抱く好奇心を満たすために、名誉のために、或いは富のために。旧き時代の遺跡へ赴き、または依頼を受けてその得物を振るう。

 今でこそ一定の信頼を得ている冒険者は、遡れば根無し草・遊び人・便利屋などと呼ばれ疎まれ蔑まれた。当時在った他の、例えば魔法使い組合のような統一された組織もなく、個々にその力を振る舞うことができた時代だった。
 信頼してもらえない。
 それは冒険者にとっても彼らに依頼する者にとっても致命的だったのだ。結果、冒険者を他の職業組合のようにひとつの組織として纏め上げ、先人たちの努力の甲斐あって、現代に至る。

 レスカトール、ユイファン、シアネド、ヒュー。

 エステラに長く住む者で、彼らの四人の名を知らぬ者はいない。
 志半ばで命を落とす者も不仲が原因で別れることもなく、冒険者としては長く十年近く行動を共にし、様々な依頼や厄介事に首を突っ込み成果を挙げる、評判の良いパーティーだ。

 レスカトールたちとの付き合いはシュウがこの世界へ落ちてきた時からはじまった。
 泣いているシュウを見つけ保護し、ユリスの宿を経てイスターシャ記念館へと導いたのも彼であり、特に八つ上のレスカトールを兄のように慕っていた。
 彼らはこの世界に落ちてきたシュウを見つけ保護した、最初の人物で言葉を教えた存在だったのだから。

「おかえり」
 もう一度言って、足元に放られた荷物に手を伸ばし、気がついた。
 上衣こそ濡れてはいないものの足元は膝までズボンの色が変わり、泥も跳ねていた。息も乱れてはいないが、短く切って整えられた栗毛からは雫がぽたりぽたりと垂れていた。
「…カサ、差さなかったの?」
「ん? ああ、少しの距離だったしな」
 カラカラとレスカトールは濃青の双眸を細めて笑うと、シュウが持ち上げた荷物をひょいと手に机に向かう。机に置くかわりに椅子を引き出し腰掛けた。
「聞いたよ」
 ふぅと嘆息すると彼はそう切り出した。
 どこか寂しそうに、腹を括ったんだなと問われ、シュウは肯定し、
「この十二年ずっと待ってて、レスカたちにも探してもらってそれでも無理だったんだし。
 そろそろ、そろそろこっちで生きる覚悟も必要かなーってさ。
 やっぱり僕が『山本修司』だってことは捨てられないし元の世界のことだって忘れられるわけはない。
 それに母さんがくれた『修司』って名前は僕の本質を表すものだと思うから捨てちゃいけないんだろうけど」
 くすくすと笑って言ってみせる。

 この世界での名を得ることは、元の世界への未練を断ち切るある種の儀式のようにシュウは感じる。
「後ろばっかり見てても、ユリスやレスカたちに申し訳ないし。いい加減前を向いて歩いていきたいなって」
 笑って告げるシュウにレスカトールはどう考えたのか、うーんと唸って口元に右手の指を持っていく。折り曲げられた指を唇にあてるその仕草は、彼が何かを考えている時だとシュウは知っていた。
「どうかしたの?」
「ああいや……。せっかく前向きになったのにな、と」
 言いにくそうに言葉を濁す青年に、シュウはああ……と頷いた。
 レスカトールは知っている。
 かつてシュウが絶対に戻らないとだめなんだと、泣きながら訴えた姿を。
 元の世界へ戻ることを切望していたことを。
 それを知っているからこそ彼と彼らは世界を巡りながらイスターシャである彼が戻ることができる術を探している。
 だから、
「聞く」
 シュウは即答するのだ。依頼を受けて世界を駆け巡る彼らが、僅かな時間の合間に探してくれていたことを。
 レスカトールは目元を和ませると、
「……シアネドが耳にしたって」
 と口を開いた。彼の仲間で、魔術が得意な男だった。
「レクナーの研究塔まで魔術師を護衛してたんだ。道中には魔力に惹かれ集まった飢えた魔物がいるからね。
 その道程で依頼主が言ってたんだと。
『レクナーの聖域の奥深く、魔王が持っている本に世界を渡る方法が書かれている』ってさ。その情報源をはっきりさせられなくってヒューが調べてる最中なんだ」
 レスカトールは魔王の一単語を口にした際、僅かに眉をしかめた。
 それに気がついたシュウは、シュウは乾いた笑いを漏らす。
 脳裏に思い浮かぶのは、顔がぼやけ声も曖昧になった家族の姿なのだ。
「……魔の王といえば世界の守護者だ。彼らを表す単語は軽々しく口にできない。まして魔術師だったからな、口にしたっていうのは、可能性があるってことだと俺たちは思う」
 レスカトールは深く溜息を吐いた。
「最大の問題は、許可無く聖域に入ったら殺されかねないってことなんだけど」
「だよね……」
 シュウも苦笑するしかなかった。

 レクナーと呼ばれる大陸はその地表の七割を森林や山が占める。
 気が遠くなる程昔の契約により、人は許可された一部の土地を除き森や山へ立ち入ることができなかった。許された場所以外を人は聖域と呼び、立ち入りを厳しく制限してきたのだった。
「最近は緩くなってきたらしいけど、まぁ許可がおりるかと言えば」
「その時は仕方がない。ついさっきまで前向きにとか言ってた人間のセリフじゃないけど、家に帰るのを完全に諦めたわけじゃあない」
「……どうする?」
 濃青の瞳はまっすぐにシュウの姿を映し出していて。
「連れて行って。レスカトールたちの邪魔にならなければ」
「了解」
 返答にレスカトールの濃青の瞳が楽しそうに煌めいて。
「依頼主の願いを叶えるのが俺たち冒険者だ。安全かつ絶対に、望みの場所までお連れいたしましょう」
 芝居がかった口調で、楽しそうにそう言った。
「と、言ったものの組合に通しとかないと面倒か」
 レスカトールは壁掛けの暦を見やり、ダル、トウェン、ミア――と口にしながら何かを計算し始める。
「難しそう?」
「いや。単純に俺たちの手続きの問題。冒険者組合への通知がないと後々面倒。あとはそうだな、移動手段の確保。転移門にせよ空海路にせよ、使用許可証に入国許可もいるし」
「そんなにあるんだけど、僕がレクナーに行ったときは簡単だったよ?」
 自身が行った時を思い返しても何かの手続きで時間を取った記憶もなかった。
 シュウが隣の大陸へ渡ったのは彼自身の思いつきでしかなく、何かの手続きを事前に行なったということはありえなかった。行きたいと口にしたその翌日、シュウはユリスに連れられてその日のうちに記念館に向かえたのだから。
 レスカトールの挙げた必要項目に驚いたと伝えると、彼は納得したようにひとつ頷いた。
「それはシュウがイスターシャだからだ。イスターシャの、異世界からの来訪者への手厚い対応は知ってるだろう?」
 それだけ言うと、レスカトールはそろそろ行くよと立ち上がる。
「準備して日程早く伝えるようにする。それじゃ近いうちに、また」
「うん。いつもありがとう」
 ひらひらと手を振れば、レスカトールも頬を緩め笑うと同じようにひらりひらりと手を振り、彼は宿を後にした。

「…………」
 ぱたんと扉が閉まっても、シュウはひらひらと手を振り続け、溜息を零すとその手をだらりと下ろしたのだった。

 * * *

 漆黒の布の上に数多の宝石を散りばめたような。

 気の利いた吟遊詩人ならばもっと上手く表現するであろう星空の下を、レスカトールは故郷の歌を口ずさみながら歩いていた。
 夕方まで降り続けた雨が嘘のように澄み渡った空に浮かぶ双つ月は、青く冷たい光を地上へ投げかける。
 瞳と同じ濃青の外套の裾は擦り切れてボロボロで、その陰から除く濃茶の革の胸甲には細かな傷が刻まれている。腰にはいつも愛用している長剣はなく、護身用にと短剣を下げているだけだった。
 その足取りは軽く、雨水に濡れた深夜の街中を迷うこと無く進んでいく。
 通りすぎる酒場からは笑い声や怒声が零れてきて、レスカトールはくすりと笑う。
(かわらないなぁ)
 レスカトールはもともとこの大陸の生まれではない。
 隣の大陸であるククロルの生まれで十二年前にこのストラルと呼ばれる大陸に、町に渡ってきたのだ。
 その時から良くも悪くも町は変わってはいない。出迎えてくれる人々は気さくでお人よしで温かく、だから大好きだった。
「Wim ran rus-tiel,Et,Liste……っと」
 歌を中断させ、とある建物の前で足を止める。
 ぶら下がる看板には雑貨屋を意味する硝子瓶と星の紋様が描かれている。その隅に小さく――意味を知らなければ見逃すほど小さな逆三角が黒の染料で描かれていること確認し、周囲を見回し人影な無いことを確かめると脇道へ身を躍らせる。
裏口に当たる部分まで忍び寄ると、
 ――トン、トン、トントン
 定められた方法で扉を叩いた。
「偽書と断罪、我らが罪は」
 その向こうで人の気配がしてしわがれた低い声がする。
 カタリと小さな音がして、視線を感じた――覗き窓が僅かに開いたのだ。舌で唇を湿らせると、低く抑えた声でレスカトールは続きを口にする。
「偽書が示すは真、断罪こそが偽りなれど、逆しまの月が指し示す」
「汝が名は?」
「"LuMedyEin et LuesCatra"」
 <繋ぐ者のレスカトール>だと名乗り、覗き窓から見える様に鞘ごと短剣を引き抜き、柄に巻きつけられた紺色の飾り紐を見せつければ僅かな沈黙の後、錠の落ちる音がやけに大きく聞こえ入れと促された。
 むっとした熱気と酒臭さが漏れてきて、レスカトールは顔を顰めると礼を口にし、地下へと続く階段を進んだ。

 地下は天井が低く、レスカトールの頭一つほど余裕がある程度だった。大男であれば背を屈めなければならぬほどに。

 そこは地上の店二軒分の地下をぶちぬいて作られた酒場だった。丸机三つは既に酒瓶の山に埋まり、だらしなく呑んだくれた男共寝台となり果てている。あとは酔い潰れ床で寝転がる者とカウンターで何やら話し込んでいるのが数名。
 レスカトールはその誰にも目をくれず奥のカウンターへ向かうと、店員に酒を注文する。
「それから、情報」
 懐から金貨を一枚取り出し、台の上へ置いた。

 他人の財産に手を付ける者。
 忘れられた遺産に手を出す者。
 身軽さを武器に諜報あるいは暗殺を行う者。
 それら纏め上げ管理している組織がある。証と符牒を得ぬ者は立ち入ることを許されない、その場所を俗に盗賊組合と呼ぶ。
 エステラにあるこの雑貨屋もその拠点のひとつだった。

「知りたい情報の種類は」
「噂の裏付け、現地の情報。ここでは詳細は口にできない」
 淡々と述べる構成員の男を、濃青の双眸でジロリと射抜くように睨み付け、レスカトールは口元だけを歪ませた笑みを浮かべる。金貨の横に先に見せた短剣を添え、顎で奥を指示し、高圧的な口調と態度で臨む。
(シュウには見せられないな……)
 内心苦笑しながら、短く整えられた人差し指の爪先で、催促するように金貨をつついた。
「……少々お待ちください」
 男は飾り紐を前に逡巡しそれだけを答えると素早く奥の部屋へ駆け込んで行く。入れ替わりに別の男が血のように赤い酒で満たしたグラスを、レスカトールの前に差し出した。
 グラスに口をつけ、レスカトールは奥に消えた男を待つ。黒い布で遮られた奥には、ウォルティアの組織を統括する長がいるのだと仲間から聞いていた。短剣の飾り紐もまた彼――ヒューから借り受けたものだ。
『レスカトール様お待たせ致しました――奥へ』
 慣れ親しんだ発音と共に奥から戻った男の態度はやや畏まったものへ変わっていて、レスカトールは冷笑を隠さずに立ち上がり、示された黒布の奥へ進んだ。

 奥の通路は店側から挿し込む光だけが光源となっていて薄暗い。細く伸びた廊下には左右に一つ、正面に一つ扉がある。
『正面へ』
 背後に立つ男が言い、それに従い進む。左右の扉はそれほど重要ではない情報交換を行う場所だと耳にしていた。左の扉は誰かがいるのか、通り過ぎた時聞き取れぬほど小さな声がした。
 古びた木製の扉を押し開ければ、真っ赤な絨毯の敷かれ奥に書架が見えた。手前に置かれた大きな机の向こうに座るのは、盗賊組合を取り仕切る長だ。傍らに置かれた金色の天秤がゆらりと揺れる。
『直接お目にかかるのははじめてですね』
 入り口から五歩進んだ時点で歩みを止め、レスカトールは眼前の男に問いかけた。
 男はレスカトールが想像していたよりも若く、まだ五十に見たぬであろう黒髪の男だった。無精であろうか伸ばされた髭が顎を多い、左目は斜めに走る刀傷で塞がれている。
(グウェイン……か)
 教えられた名を反芻する。
『その組紐は構成員にしか渡してはおらぬはずだがな』
『ああ、そうでしょうね。私もこちらに所属した覚えもないですから』
 左右の壁際に三人ずつ、後ろから案内の男が一人。レスカトールの発言に空気が変わった。長の指示さえあればいつでも拘束しにかかるであろう、その体勢に。
『まあ、お前さんにそれが渡るとしたらヒューしかいないだろうな』
 用件を聞こうか。
 長グウェインはくつくつと笑うと、話すように促す。相変わらず周囲の男はレスカトールを警戒しているようだった。
『ひとつ、異なる世界へ渡る術の存在の有無とその裏付け。
 ふたつ、魔術大全の原本・写本それぞれの所有者とその所在地について。
 ……みっつ、過去に落ちてきたイスターシャの中で、帰還できたか、もしくはそれに近づけた人物の有無と詳細』
『ほう……期限は』
『三日と言いたいができる限り速やかに。一件目を最優先、二件目は難しければレクナーを優先、残りは三件目と共に後での報告で構わない。報酬は一件につきレクナス金貨五もしくはストラス金貨八。手付として三割』
『レクナス金貨で十』
『レクナーまでの転移門使用許可と入国許可証の手配を追加。それで八だ。十を望むならあっちの組合への渡りを』
 きっぱりと言い切ったレスカトールの言葉に、グウェインは考えこむような素振りを見せる。時計が刻む音がカチカチと室内に響いた。
「……ヴェダル、入国許可証他手配へ回れ」
「はっ」
 左の壁に立っていた男は名を呼ばれると音もなく部屋を後にする。
『ひとまず三日待ってくれ。できる限り集めよう』
 グウェインは、厳しかった表情を緩めると、口元にうっすらと笑みさえ浮かべる。壁沿いの男たちも気がつけば警戒体勢をといているようだった。
『助かる。私たちが噂を聞いたのはレクナーの魔術師からだ』
 知らず知らず詰めていた息を吐き出し、レスカトールも姿勢を崩す。
『ヒューも情報を集めると別れたきりだが、やはり難しいか?』
『あっちで動いてるようだが芳しくはない。
 だいたい世界を渡る何ぞ普通は考えんだろう。魔術大全ですら現存しているのはほとんどが写本だろ? 懇意にしてるイスターシャの為にそこまでの金を出すのか?』
 どこか呆れたような少しだけ砕けた口調で言って、グウェインは楽しそうに暗緑色の瞳を和ませる。それに肯定して、
『兄と慕ってくれる可愛い弟分ですしね』
 と笑って付け足した。
 グウェインもそうかと笑う。それからレスカトールをまっすぐ見据えると、
「そう言えば……。これは裏付けもとれてないただの噂だし、こちらとしても不確かな情報を渡すわけにいかんのだが、聞くか?」
 と、よく透る低い声で問いかけた。
 髪と同じ黒瞳は嘘をつくようには見えず、それどころか、どこか楽しそうに笑っている。
 レスカトールは僅かに首を傾け逡巡すると、続きを促した。
 男はくつくつと喉を鳴らして笑うと、あくまで噂だと前置きした上で話しを進めた。
「北の魔法使い共が不審な動きを見せていると耳にした。賛同する魔力や構成力の高い魔法使いを集めて、儀式を行うらしい。過激派の中でも更に少数派らしいが、世界を越えるのだと聞いた」
『世界、を?』
『まあ、待て待て』
 数歩距離を詰め詳細を問おうとするレスカトールに、落ち着けと言わんばかりにグウェインは右手を振る。ぐっと息を詰めて後退する。
「世界を越えるとはいえ、それがイスターシャの帰還に繋がるかはまだわからんし、今はまだ準備期間のようだ。結果が分かるのは当分先だが、頭の片隅にでも残しておけば良い」
「北の魔術師ね……なるほど。いい情報をありがとうグウェイン殿」
「なに、ヒューの奴がそれを預ける程信頼してるのが相手だしな」
 それと顎で腰の短剣を示され、レスカトールは苦笑を浮かべる。
 短剣、正確には柄の飾り紐こそが、組織の一員であることを示す証なのだ。
「ヒューに無理を言って借りたから、あいつを咎めるのはやめていただけたら有難い。構成員でないのに押し入って悪かった。報酬は規定の手筈で納める。よろしく頼む」
「気にするな、こちらも商売だ」
 組合の長の楽しげな口調に、レスカトールは微笑みもう一度深く頭を下げると、控えの人間について部屋を辞したのだった。

「これからどちらに?」
 細い通路を抜け元の酒場に出ると、最初に対応した男がそう問いかけた。
「このあと酒場をいくつかまわる。それから一度宿に戻って朝から組合に。そちらの情報を受け取るまではこちらに留まるし、近場の酒場に顔を出すかくらいだ。最悪宿やギルドに言付けてもらえば受け取れる」
「了解しました」
「それじゃ、ありがとう」
 丁寧に頭を下げる男に礼を口にすると店の外に出る。
 入口の見張り役はジロリとレスカトールを見遣るだけだった。

 店の中は思った以上に熱気がこもっていたらしく、外の風がやけに冷たく感じる。外套を体に巻きつけるようにしても、わずかな隙間を通って風が入り込んでいくようだった。
「さむい」
 吐き出した息は白く立ち昇っていく。秋の終わりとはいえ冬の季節はすぐそこまで来ていた。

 * * *

「やけに遅かったじゃぁないか」
 レスカトールが宿に戻ったのは、夜の刻も半ばだった。
「エステラは久しぶりだしね、あちこち回ってた」
 宿の者を起こさぬよう足音を立てずに戻ってきたというのに、同室の男はけろりとした表情でおかえりと口にする。
 手元には分厚い本、寝台の上にもすでに数冊積まれている。
 背の半ばほどまで伸ばされた少し青みを帯びた銀髪は手入れを怠っているせいで毛先があちこちに跳ねている。なかなか日に焼けないと嘆く肌は北で見る雪のように白く、二十代も半ばだという顔はひどく幼く見える。
 黙ってさえいれば性別を間違えられることも少なくない、その男の名をシアネドという。レスカトールたちが行動を共にしている仲間の一人で、腕の良い魔法使いだった。
「よくもまぁ、はしごしてくるね」
「そういうお前だってずっと本読んでたんだろう」
「まーねー。こっちも久しぶりにゆっくりと腰を据えて読めるからつい夢中になった」
 本を手放すそぶりも見せずに男――シアネドは濃青の瞳を細めて笑い、そのはずみで肩から銀髪が滑り落ちた。
「んで、成果は? 僕から話す?」
 レスカトールが旅装を解き片付け終わったのを確認すると、二人は向き合うように互いの寝台に腰をおろし、シアネドはそう切り出した。
「そうしてくれ」
「了解」
 続きを促され、シアネドはひとつうなずき口を開く。
「僕は魔術師組合にあたった。写本はまだ残ってるらしくてとりあえず閲覧申請しといた。ヒューは先に現地入りしたっきり報告はない。ユイファンもギルドをあたってくるとは言ってたけど、今頃実家で、えーとカゾクミズイラズ? してる頃じゃないかな」
「それでも写本閲覧はありがたい。あいつらには感謝するしかないな」
 つまりは成果なしときっぱり言い切る友にレスカトールは苦笑する。
 彼らが閲覧しようとした本は魔術大全と呼ばれる複数の巻からなる書物で、それは写本であろうと原本であろうと基本的に禁書指定を受ける。禁書の閲覧には、それ相応の位や閲覧申請手続きなど酷く手間がかかって仕方ないのだ。高位の魔法使いが身内にいるのはこういうとき便利だと、口にはせず心の中でつぶやいた。
「こっちは入国・使用許可証込でレクナス金貨三十でケリはつけ、ああ、もちろん成功報酬だぞ。手付は三割。許可証発行の手間がないだけマシだろう。あとは三日以内に情報が来る手筈になっている。それとギルドのほうへ依頼受けることを報告して準備だろうな。今を逃せば春まで待つ羽目になるから、迅速に」
 金額を耳にしてむっとした様子だったが、迅速にと聞いたシアネドは同意だと大きく頷いた。
 冬がやってくれば、レクナー大陸の北方は雪に染まる。目指す聖域が大陸のどこにあるかはっきりはしていないが、仮に北方だった場合、既に今から目指すのすら愚かしい行為だ。
「本当は春を待つのがいいんだろうけどねぇ。あっちは春先の景色が美しいからなぁ。でも冬の湖とか北の雪景色もいいか」
 どこか観光にでも行くようにあれでもないこれでもないと例を挙げる友の発言に、レスカトールは首をかしげる。
(北……って)
 グウェンに聞いた話を思い出し、面白い話を聞いたと、そのことを告げた。
 何気ない話題のはずが、シアネドは顔をしかめると、考え込むそぶりを見せた。
「何か、あるのか?」
「いや……過激派がなにをやるんだろうかって、ね。そこにイスターシャを連れてく?」
「必要があれば考えるが、魔法使いの派閥はよくわからない」
 困ったという様子にシアネドは僕もだとくすりと笑う。
「大丈夫、僕もわからない。……件の連中への接触は最後の手段と考えておくことを魔術師として忠告しておくよ」
 魔術師としてと告げる男に、わかったとひとつ頷いて見せる。
「まぁ、とりあえずはシュウが保護者を説得できるかが重要なんだよな」
「……多分できると思うけど、ユリスって過保護だしねぇ」
 レスカトールが出て行ったあと、説得に成功してもあれこれと言い合っているであろう親子の姿を脳裏に描き、二人は成功を神に祈るしかないと笑いあったのだ。

 * * *

 夜の刻も半ばにさしかかるころ、ようやく星の祝福亭の面々は休息の時間を迎える。

 あらかた片付け終わればシュウに休むように指示をだし、ユリスは母カナンと共に最後の片づけと準備を行うのが日常だ。
 星の祝福亭は冒険者向けを謳う宿屋兼食堂だ。
 冒険者証を提示すれば宿代が多少割り引かれる。それだけではなく食堂の料理は美味く量もそれなり、しかも安いとくれば、駆け出しの冒険者にとっては最高の店だ。
 先代に世話になったという現役を退いた元冒険者や、一般人も頻繁に訪れる。

 明日の仕込みと帳簿の確認を手分けして片づけたカナンとユリスの親子は、店の椅子に腰かけるとお互いを労い遅い夕食をとる。
「それで、あの子はどうなるんだい?」
「一応正式にウチの子になるし、エステラ在住として戸籍登録もされるが、身分的にはイスターシャのままだと説明されたよ」
「行儀が悪い。そっか、普通の子にはなれないの、ね」
 ありあわせで作ったサラダをフォークの先で突くユリスをしかると、カナンは残念そうに口にするのだ。
「まあ、彼らの知識を得るための保護法だし、そう簡単に手放したくはないんじゃないか?」
 淡々と告げると、残りのサラダを口にしてユリスは行儀悪く椅子にもたれかかる。母親の目つきが変わったことには気が付かないふりをした。
「保護法、保護法! あたしみたいなおばちゃんならまだしも、あんなに小さかった子が自分の故郷の説明なんかできると思ってるのかねぇ」
「まああんなちっこいのが来るなんて想定してなかったんだろうさ」
 ぷりぷりと怒る母親に苦笑してそう告げる。
「こっちとシュウの故郷が同じ時間だと思ってないけど、八つっていやあ自分の周辺でいっぱいいっぱいだったよな」
「世の中の仕組みなんてそう上手く説明なんてできやしないだろうさ」
 はじめて出会った時の幼子の姿を思い出しそう言った。

 そんな時だった。
 控えめなノックのあと、ひょこりと件の少年が顔をだしたのは。
「今いいですか?」
「まだ起きてたのか」
 遠慮がちに顔を出した養い子に顔をほころばせると、どうしたんだと問いかける。
 それに対してシュウは俯きがちになりながらふたりに向き直り、何かを決意するようにひとつうなづくと、
「ごめんなさい!」
 深く腰を折って頭を下げたのだ。
「何かあったの?」
 母の声を背にして、突然の行為に困惑しながらユリスは席を立つとシュウの腕を取り頭をあげさせる。
 ややたれめがちな漆黒の双眸は、しっかりとユリスを映し出している。
「ごめんなさい」
「…………」
 もう一度口にする少年に、ユリスは息を吐くとそこに座りなさいと空いた席を指差し、自らも腰を据えた。

 かちゃかちゃと音を立ててテーブルに並べられたのは、温かな湯気を立ち上らせる紅茶だった。砂糖壷とミルク瓶を一緒に置くと、カナンは黙ったままの二人の子供をみやって苦笑する。
「何がごめんなさいなのか、怒らないから話してみて?」
 ユリスのカップには何もいれずにそのままで、自分には二杯、シュウには三杯砂糖をいれて混ぜる。
 シュウはカナンに促されるままにおずおずとカップを手にすると、口をつけほうっと息を吐き出す。それからとつとつとレスカトールから聞いたことを伝えた。
「もちろん、今回も無駄足かもしれない。でもやっぱり『世界を渡る方法』って言われると、気になって仕方が無い、もしかしたらって思ってしまう」
 もう何度目になるかわからないけれどね。
 そう付け足して、シュウはくすりと笑う。
「それは、……きつい言い方だがまた無理なんじゃないか」
「そうよ。今までもそうだったじゃない、期待するだけ期待して、それがいつもでしょう」
 酷い言い方だと自覚しながらも二人は言う。
 彼らは知っている。何度も見ている。
 笑いながら仕方がないと言いながら、夜一人泣いていたことを。
 そうでなくとも小さな子供が、故郷に戻れないと知ってどうして諦められようか。
 どこか泣きそうな大人二人の表情を見て、シュウもつられて眉尻を下げる。
「諦めようって思った途端に、この情報だよ? これでダメだったら、諦めたくないけど諦める」
 ぬるくなったカップを置いて席を立つと、先程よりも深くシュウは頭を下げる。
「レスカたちと一緒に、レクナーに行ってきます。諦めるなんて口にしたけど、僕はどうしてもニホンに帰らないとだめなんです。家に帰らないとダメなんです」
 頭を下げたまま微動だにしない少年に、ユリスとカナンは顔を見合わせると仕方ないという風に口元を緩める。
「ほら、顔を上げてしゃんとしなさいな」
「でも」
「いいから」
 側まで歩み寄りぴしゃりと言うと、カナンは腰に手を当て人差し指をシュウの鼻先に突きつけた。
「ひとつ、健康管理に気をつけること。
 ひとつ、絶対に無茶をしないこと。
 ひとつ、わがままをいってレスカトールたちを困らせないこと――守れるかしら?」
「寂しくはなるけど、シュウが決めたことに反対はしないと、元々話し合ってたからね」
 カナンの発言にぽかんとする様をみて、ユリスはケラケラと笑ってそういう。
「シュウジ、君が選んだその道に祝福があることを願うよ」
 ユリスもまた、目元を和ませると側に寄り少年の頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。
「ふたりともありがとう。……カナンの言うこと、守るって約束するよ」
 少しだけ赤くなった目でシュウは二人をみやると、笑ってそういった。

 * * *

 白石造りの店の木製扉は、押し開けると蝶番が悲鳴を上げる古びたものだった。
 大通りに面した入り口には大きく<都合により食堂は臨時休業致します 店主>と張り紙がされ、行き交う冒険者たちは珍しいと口々に言い、空いた腹を満たすために他の店へ向かう。
 洗濯物がよく乾きそうな天気、週末の事だった。

 星の祝福亭に宿泊している者が何組かいるため、彼らの世話を住み込みの従業員に任せ、ユリスはカナンとシュウを連れてエステラの西通りを歩いていた。
 シュウの、旅立ちの道具を揃えるためにだ。
 エステラの町は大陸間を渡る船の寄港地だ。町の西方は港に面しているため、そこを除けば東西に延びた楕円を描くように外壁で囲まれている。東西南北を走る大通りとそれに連なる町の内と外を隔てる大門、大通りに平行して走る小通りで構成される。ちょうど真上から見れば格子状に通りが走っているのだ。
 港から続く通りは、荷物を担いだ商人らしき男や旅行鞄を下げた親子連れ、それから冒険者の姿と、彼らを相手に声を張り上げる地元商人たちの姿をよく目にした。
「ああそうか、明日安息日か」
 シュウが漏らした呟きに、カナンはそうだよと頷いた。
 大通りを挟んである家や店は、通りの空を渡るようにロープが張られ<交流都市エステラへようこそ!>だの<お泊りはハクレイ通りの宿・エステリアへ>といった宣伝文句などが色とりどりの布に染め抜かれ風に吹かれ揺れていた。
「今日は観光目当ての一般人が多いらしくてねぇ」
「それならお店閉めちゃったの大変なんじゃ」
「気にするな。どうせウチは冒険者向けだ、一般人はあんまりこないさ」
 カラカラとユリスは笑いながら、こっちだと手を振り人ごみを避けるように大通りから一本外れた小道へと二人を先導する。
「こっちの通りははじめてくるや」
 そう呟き物珍しそうに周囲を見回すシュウに、ユリスたちはにこりと笑みを浮かべた。
「約束事守ってたのか」
「うん。迷惑かけられないし、一人じゃやっぱりね」
 少し照れたようにはにかみながら、シュウは漆黒の瞳をあちらこちらへ向ける。
 西の大通りは観光者向けで華やかな印象を覚えるが、ひとつ南に下った小通りはどこか埃っぽく薄暗い。通りの建物も古く薄汚れた石造りが多く、表面にはひびさえ走っている。
 武装した、あるいは軽装の冒険者が行き交う通りには、武器や防具を扱ってるシンボルを掲げた店が立ち並んでいた。
 通称・職人通り。
 冒険者の旅の道具が立ち並ぶ、通りだった。
「明るいうちはなんともないんだけど、夜がやっぱりね」
 酔った馬鹿がふらついてるからここに来させなかったんだと続け、カナンは足を止めるとこっちよと、一軒の店を指し示す。
 曇った硝子の向こうにはいくつかの服が展示されている。店の看板に刻まれているのは、ケープと帽子のシンボルだった。

「おーい」
 営業中の札がかかった扉を開け進めれば、がらんがらんと乾いた鐘の音が響き、店内に明かりが灯る。わずかに遅れカナンが、最後にシュウが入り扉をきちんと閉める。
 ユリスの呼びかけに、奥からしわがれた声が聞こえた。
「さあ交渉交渉っと」
 いつも言い負かされているのを棚に上げぽつりと漏らし振り返れば、シュウが珍しそうに通りに面した場所に展示されている人形を眺めていた。
 衣装見せの人形が着せられているのは、寒冷地用の上衣と毛皮の外套だ。
「珍しいか?」
「うん。お客さんが手にしてるのは見たことあるけど、間近でみるのは」
 ユリスの問いかけに頷いたシュウは、くるくると黒目がちな瞳をあちこちに動かし店内を見回す。保護者である二人は顔を見合わせて笑うと、ユリスはやってきた店主の元へ、カナンはシュウを連れて衣装を見て回る。
「朝も言ったけどレクナーはここより寒い地方が多いから、厚着しないといけないわ。服の上下に寒冷地用の外套、とりあえず探しましょう」
 そう言ってシュウが着れそうな服を見繕い始める。
「気に入ったものがあれば、遠慮なく言ってね」
「うん、ありがとう」
 そんなやり取りを経て二人並んで仲良く探し始めた様子を確認すると、ユリスは口元に笑みをたたえながら、目当ての物を指指し店主に向けて口を開いた。

 結局、それから一刻と少ししてようやく会計を終えた。
 ああでもない、こうでもないと言い合いする母と我が子の姿は非常に楽しそうで、店主の老人との交渉を終えたユリスは、母親そっくりの緑の瞳を和ませながら世間話に興じていた。
 とっかえひっかえを繰り返し二人が選んだのは、肘に当て布がついた厚めの生地の上衣を三着。こちらも膝に当て布がついたズボンを二本と、黒い羊毛の上着と、濃緑の雨避け用の外套だった。
 商品をおさめた紙袋を受け取ったのはシュウで、口々に礼を言うと三人の親子は店を後にした。がらんがらんと閉めた扉の向こうで音がするのを聞きながら、ユリスは後ろ手に隠していたそれを、そうっと、前を行くシュウの頭にぽんと乗せる。
「え」
「これは俺からの贈り物だ」
 驚き振り向いたシュウの黒髪をすっぽり覆うのは、薄茶色の厚手の帽子だった。
 側面部分からは耳当てついていて、不必要な時はベルトで固定してしまえば邪魔にならない。
「店の冒険者が言ってたんだよ、寒くて耳が痛いってな」
 がりがりと金髪をまぜっかえすユリスから、手に取った帽子へと視線を落としたシュウは、顔を上げるとにこりと笑った。
「ありがとう、二人とも」

「僕のわがままを聞いてくれて、本当にありがとう」
 紙袋と帽子をぎゅっと抱きしめるようにして、シュウはそう笑った。

 翌日にはレスカトールがやってきて、四日後に出発だと伝えられた。

 * * *

 シュウは養い親たちにそのことを伝え、いつものように店の手伝いをしながら荷造りを進めた。
 常連客の中でも特に親しい者たちには不在を連絡し、幸運や無事を祈られた。
 その中でもダスクは特に心配をし、
「餞別だ」
 そう言って青い飾り石のついた指輪を贈られた。
「守護の魔法が込められてるんだと。気休め程度だろうが持ってけ」
 黒髪をガシガシとかきながら渡されたそれは、出立の時、シュウの右手の中指にはめられていた。

 * * *

 旅立ちの日は、雲一つない青空に太陽と双つ月が白く輝いていた。
「吉兆だ」
 そう言ったのは誰だろうか。
 船乗りたちもどこか嬉しそうに、出航の準備に取りかかっていた。

「それじゃあ、行ってきます」
 荷物袋を背負い挨拶するシュウの前では、ユリスとカナンの二人は心配そうに眉尻を下げている。
 買ってもらった黒いコートに薄茶色の帽子を身につけて、シュウはどこまでも不安そうな二人に笑って、
「心配しすぎだよ」
 乗船待ちをしてる仲間たちを指さす。
「あいつらが一緒だったら大丈夫だとは思うが、やっぱり心配なんだよ」
「本当に危ないことはしないで、体には気をつけてね」
「わかってるよ。レスカたちに迷惑かからないようにするし――心配してくれてありがとう」
 カナンの首筋に顔を埋めるように抱きしめて、ユリスにも背伸びして抱きついて、
「それじゃあ、行ってきます」
 短く別れの挨拶を口にして、駆け出した。

 ゆっくり動き出す船の縁から手を振って。

 見送る養い親たちの姿が遠く見えなくなっても離れられず、シュウは欄干を握ったままずっと港の方向を見つめていた。
 彼らと離れるのはこれが初めてというわけではなかった。今までも何度かあったし、けれど、それは期限の切ってあった小旅行だった。
「やっぱり不安?」
 そう問いかけてきたのは、一行の唯一の女性冒険者ユイファンだった。
 肩を少し越した、日に透けそうな輝く金髪に赤い瞳。少し日に焼けた白い肌の華奢な女性で、口を閉ざしていれば儚い印象を持つ。実際は快活で明るく振舞える正反対のタイプなのだけれど。
 寒さ除けか紺色の外套を体に巻きつけるようにしたユイファンは一層細く見えて、隣に並び立つのにシュウは嘆息した。吹き抜ける海風に、その豊かな金髪は流されるままにしていた。
「んーと、少しだけ、不安です」
 言葉を選びながらそう告げる。
 船に乗るのは故郷でもこちらでも何度か経験したし、よその町や大陸へ移動することもはじめてではない。
「ユイファンや皆がいるから怖くも不安もないんだけど」
 笑って言えば、そうねぇと小首をかしげるようにして呟いた。
「まぁ、ユリスとあんまり離れたこともないしっていうのもあるんじゃないかなあ。気楽に、小旅行程度に考えておけばいいと思う」
 いい子いい子と子供にするようにシュウの黒髪を撫でまわし、むっとしたような顔を作ってみせる。
 ユイファンは、シュウとは五つしか年は変わらず、身長だってシュウのほうが高いにも関わらず、ひどく大人ぶった振る舞いを見せるのだ。
 むくれるシュウにけらけらと声を上げてユイファンは笑って、それから指で空を指示した。
「今日は良い日だ。青空に太陽と双つ月が並んでいるし、結果がどうであれ、得るものはきっとあるはずだよ」
「そういえば、さっき吉兆って聞いたけどそうなんですか?」
「そうそう、そうなの! そっか知らないわよねぇ」
 ぱっと顔を輝かせ嬉しそうに微笑んだ彼女は、胸元に下がる正三角形の銀飾りを持ち上げる。
 親指と人差し指で作った円と同じくらいの大きさの正三角に成形された薄い銀板には、各頂点を結ぶように円形の輪が二重に刻まれている。
 それは世界を生み出した創造神のうちの月神ティアの信者が、己の信仰を示すための象徴として身に着けているものだ。
「えーとね、こちらの創世神話に残っている話では世界を作り上げた六人の神様のうち、太陽神リザーブと月神ティアは楽園にて結ばれて双子を授かったの。それが空に浮かぶ月」
 つられて見上げれば、太陽を挟んで大小二つの月が綺麗に並んでいる。
 ユイファンは月を示し、大きく少し青みを帯びた方を兄月のエティス、小さく銀色に見える月を妹月のリエスと呼んだ。
「月神たる母月ティアも存在するのだけど、太陽の後ろに常に隠れているから見ることができないの。兄妹月が空を巡る周期はそれぞれ少し違ってて、同じ空に二つ月と太陽の姿が見えるのは珍しいのよ」
「だから吉兆?」
「そう。空にきれいに三つ並びになるのはだいたい五十年に一度かな?
 空にただあるだけなら、ひと月近くは見れるのだけど。人生で一度は見れるけど、二度目はそうないことだから」
 私も見るのははじめてと笑いながらユイファンはそう言って、船内への入り口を指し示す。
「そろそろ寒くなるし中に入ろう。レスカトールたちも打ち合わせしたいって言ってたから」
「ん、そうだね」
 腕を取られたシュウははにかんで、そのあとに続いた。

 * * *

 客船といっても、シュウたちのいたストラル大陸から西隣のレクナー大陸までは海路で一刻足らずで到着する。
 レスカトールが入手した乗船券は冒険者向けの比較的安価な船のものだ。等級は二等のもので六人が入れる小部屋を割り当てられていた。てっきり三等級の乗船券で大部屋で過ごすものだと思っていたシュウは驚いたが、それは彼の仲間たちも同様だったようで、乗船前、無駄遣いをするなとレスカトールが叱られていた光景を見ていた。
「転移でも使えれば楽なんだけど――や、おかえり」
「たっだいまー。無駄遣いした甲斐あって気を使わなくっていいか」
「ゴメンナサイそれは本当に俺が悪かった」
「落ち着いてられるからこれはこれで」
 何やら相談していたらしい備え付けの机の上を見て口々に言葉を交わすと、二人ずつ机を挟むように適当に腰を下ろした。
 それなりに上等の椅子は座り心地が良く、無駄遣いに立腹していたはずのユイファンはにこにことお茶を入れそれぞれに配る。ちゃっかり机の隅にお菓子が用意されているのはご愛嬌だ。
「とりあえず、今後の説明を軽く」
 銀髪の魔術師シアネドはそういって、広げられた地図を見るように促す。皆の目が集まったことを確認すると、シアネドの細い指先がエステラから海を挟んだ対岸を動き指示した。
「僕らはエステラを出て、まずは港町ユイフに向かう。まぁ、あと半刻足らずで着くよ」
 とんとんと示すのがユイフの町なのだろう。シュウを気にするようにそう言って、さらに指を地図上で南へと動かす。
「許可証を貰ってるから転移魔法を使用して交易都市キーダルフへ一気に南下する」
「許可証?」
「うん。えーとどこそこ支部所属の冒険者とか、そんな口上、聞いたことない?」
「ああ、そういえば」
 宿にやってくる冒険者は、受付の時に自身の所属を明らかにしている。
 それが例えばストラル支部所属であったり、レクナー支部所属であったり、だ。
 思いあたったシュウは肯定し、それに満足そうにシアネドは口角を上げた。
「覚えがあるみたいだね。まぁそんな感じで、僕らは各大陸の冒険者組合に登録される。登録した大陸内に関しては細かい規定に基づいて本来必要な入出国手続きが免除された上で、冒険者組合あるいは魔術師組合の敷地内に限り自由に行き来ができるんだ」
「戦争状態で国交断絶とかなら別だけどな」
「それもそうそうないことだから、今は特に気にしなくても平気。シアネドのいう許可証っていうのは、簡単に言うと異なる大陸において指定された範囲内での魔術での移動許可が出るっていうこと」
「ああ、わかった! ユイフからキーダルフだっけ、その間は移動していいってことか」
「そういうこと。僕らに与えられたのは正確には両都市のあるアクナス国内での使用許可だけど。――で、レスカ。キーダルフで宿泊が今日の一応の予定、でいいよね?」
「ああ」
 振られたレスカトールは頷き、キーダルフを示す。
「一応ヒューとはここで合流する手筈になっている。宿の手配込でだけど」
「じゃあ明日から聖域入りってことかしら?」
「特に問題なければその予定のつもり。詳細は合流してからになると思う」
 答えてレスカは首をかしげるようにして、シュウを見る。ユイファンとシアネドの視線も向けられるのを感じた。
「どうかした?」
「だいたい知ってると思うけど俺たちはいつもこんな感じだ。わからないことがあれば、遠慮なく言ってくれよ」
「うん、わかってる」
 どこか不安そうな旅の同行者たちのその表情に、シュウはくすりと笑う。
 シュウ自身も先の見えない旅に不安もあるけれど、それ以上に彼らも不安なのだろうと、想像する。
 皆がいるから大丈夫。
 短いその言葉だけを口にすると、シュウは地図を指さしあれこれと質問を始めた。
 今後歩むであろう異大陸にまつわることを。

『まもなく、ユイフ港へ到着いたします。お乗りのお客様は――』
 少しひび割れた音で、船内に案内放送が響き渡った。


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掲載日:2020/05/14 初出:2011/11/10
小説家になろう、掲載分より
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